Not doing but being

東京都大田区で開業している訪問診療医のブログ。主に緩和ケア、認知症、訪問診療、介護、看取り分野の話題です

一体誰と話しているのか

筋萎縮性側索硬化症(ALS)の患者女性の依頼を受け、
「殺害した疑い」があるとして、7月23日に二人の医師が
逮捕されました。この事件はTwitterでも大勢の人が取り
上げ、またこの事件について書かれた記事も多数、
インターネット上で読みました。

識者は「この事件を機に安楽死を語るべきではない」と
言います。言いたいことは分かります。日本において
医師の行為が罪に問われるかどうか、違法性阻却条件と
いうものがありますが、そんなものを持ち出さなくても
初めて患者宅を訪れた医師が会って10分で致死量の薬物
を投与した
、とするとこれは疑問が沸いて当然です。
まだ裁判も始まっていない事件ですし、分からないこと
が多いのでコメントしにくいですが、確かにこの事件を
安易に安楽死と呼んで良いとは私も言えません。

しかし、識者がどう思おうと普段から「安楽死」について
意見がある人達は日本にたくさんいて、今こそみんなに
考えを伝えたいという人達のメッセージがTwitterに溢れ
ました。私もこれら、記事や是非についての意見を含む
ツイートをたくさん読み、また自分自身もツイートを
させて頂きました。

一連の報道を見て私が持った違和感は、記事の多くが
施行した医師がどのような人物であったか、というもの、
安楽死を望んだことがあるが乗り越えて頑張っている人
の記事、安楽死に反対する障害をお持ちの患者さんの
訴え等であったことです。
もちろん、これらの記事もとても意味がありますし、
苦しみの中にある人に届き、乗り越えた人もいるのだから
頑張って欲しい、という「周囲の」気持ちも分かります。
しかし、安楽死について何か考えるのであれば「今まさに
苦しみ、死を願わざるを得ない患者さんの言葉」を聞くの
が最初ではないか、と思うのです。
記事の中に、安楽死が必要だと思っている当事者の声が
何故かまったくないのです。

Twitterでこれを、「まるで(安楽死を望む人が)いない
かのように」と表現した方がおられました。
苦しむ当事者が出てこないのは何故なのでしょうか。

また、安楽死について反対する方々の意見でいつも目に
するものは、
「安楽死を語るほど社会が成熟していない」
「緩和ケアがきちんと行われるようになってから
話し合うべきだ」
といった、議論をシャットアウトする言葉です。
私も緩和ケア医ですから、そのような考え自体に反対
しているわけではありません。
しかし、ここでも大切なのは、これは当事者の目線で
出された意見ではない
ということです。
「私がどう思うか」
よりも、苦しんでいる人の声を聴こうよ、と言いたい
のです。

安楽死に賛成、反対の前に、
「生きたい」患者さんの気持ちを支えるのと同様に、
「死にたい」という苦しみにも私たちは逃げずに
向かい合わなければいけない。

これが私の考えです。