Not doing but being

東京都大田区で開業している訪問診療医のブログ。主に緩和ケア、認知症、訪問診療、介護、看取り分野の話題です

何が「本人の意思」なのか

終末期の患者さんに、「どのような治療を受けたいか」、
あるいは「受けたくないか」を決めて頂くことは、しば
しば難しくなります。意識がはっきりしていない事も
多くありますし、記憶や判断力が落ちた状態での「意思」
を、御本人の本当の意思として捉えて良いのかという
問題もあります。もちろん「出来るだけ本人の望み通り」
と考えている家族が多いと思いますが…。

例えば終末期の患者さんがせん妄状態になり、幻視や
妄想が出現している。ずっと自宅で最期まで、という
本人の希望でみんな頑張って来た。しかし、患者さん
は「つらいから入院したい」と言い出した…。

考え方は大きく分けてふたつあると思います。考えが
変わるのは誰にでもあることだ、病院で診てもらおう。
これがひとつ。もう一つは、「本人は混乱し正しい
判断が出来なくなってしまった。昔からずっと家で
最期までと望んでいたじゃないか」と自宅療養を続け
ようとする御家族。どちらが正解、間違いと言えるで
しょうか?

せん妄であっても本人の言葉を「意思」として考える。
もちろん良いと思います。しかし入院した途端、「家に
帰りたい」と言うなら、また自宅に戻りますか?
家に着いて「入院したい」と言ったらまた搬送しますか?
あるいは、どう考えても終末期で余命数日という
患者さんが「死にたくない、何でもいいから治療を続けて
くれ、心臓マッサージをしてくれ」と言うなら、言葉
通りに治療をするのでしょうか?患者さんの肋骨がバキ
バキに折れて、数日のうちに「もう一度死ぬ」ことが
分かっていたとしても?

少し無理のある例だったかもしれませんが、私が言いたい
のは「本人の希望通りにする」にも限界があるということ。
本人は病状も余命も理解していないことが多いのです。
少し経験のある方であれば、判断力の落ちた患者さんの
「答え」が、聞き方によって全然変わってしまうことがある
のは御存知であると思います。

これは答えのない難しい問題ですが、ひとつの可能性が
「アドバンス・ケア・区ランニング(ACP)」なのです。
理想は病気でも何でもない時から、みんなで何度も話し
合うこと。「告知はして欲しい」「延命はしないで欲しい」
私の意識がなくて家族の意見が違ったら、〇〇が決めて欲しい、
などです。

ACPは、「事前の指示」というより、御本人の生き様や
大事にしていることをみんなで聞くことなのです。
そして、それが元に家族と医療者チームが話し合う時に
とても大きなヒントになることが少なくないのです。

記憶より感情を

認知症の患者さんのご家族が患者さん本人に対して、
出来事や約束をどうにか思い出してもらおうと画策する
ことがあります。これは当然の心理ですが、相手が認知症
の患者さんである以上、この試みはうまくいきません。
よく見掛けるのは、約束事を書いて壁に貼り付けたり、
「念書」を書かせたり、あるいは写真や動画を撮って後で
見せたり。しかしこれを見て「そうだったわね」と思い
出す方は、そもそもこんな事をしなくても説明だけで思い
出すのではないでしょうか。

特にアルツハイマー型認知症では、初期には印象に残る
エピソードは覚えていたり、気遣い、取り繕いなど記憶
以外のことはさほど失われていないことも多いので、
周りはつい、覚えさせよう、思い出させようとしがちです。
しかし、ここが全く思い出せないのが認知症ですので、
これらのアプローチがうまくいくことはあまりありません。

それどころか、自分の記憶がないことをどこかで意識して
いたり、「何かおかしい」と感じている方はおられます。
「最近呆けちゃって…」と何か指摘される前に言い訳のよう
に言う方は、何らかの違和感や不安を感じているのでは
ないかと私は考えています。
ですので、身に覚えのない写真や念書など出されても
混乱するだけです。

考えてみて下さい。あなたが御自分のお子さんと会話を
していたとしましょう。突然お子さんが、
「お母さん、その話今朝聞くの4回目よ」
とおっしゃったら、自分はその記憶がなかったら
どう感じますか?

突然部屋の物の位置が変わっている。おかしいと思って
聞いたら、「お母さんが昨日自分で模様替えをしたでしょう」
という返事があった。これ、怖くないですか?

そういうひとつひとつの記憶もまた消えていくので、
相手は何度も話したでしょうと次第に苛立って来る。
そして、何を話したかは覚えていなくても、感じた不安、
怒りや苛立ちなどの情動の記憶はその後も残ることが
結構あります。情動は生物の生存に直結する大切なもの
なので失われにくいのかもしれません。

ですので結局、間違いや記憶がないことを指摘しても
不安が増すばかりで、不安は不信感やパニック、癇癪、
焦燥感などの原因となり介護が余計に困難になるのです。
まずは御本人の不安、恐怖に目を向け、それを和らげる
方法を考えるのが先決だと思います。
失くしものを、物盗られ妄想を叱るのではなく、
不安を受け止め一緒に探すなど。探しているうちに
だんだん忘れてくるので、タイミングをみて「休憩を
しましょう」とお茶や美味しいものを用意するなど。
もちろん上手くいく場合ばかりでなくやはり大変だと
は思うのですが、介護の方向性としては詰ったり
プライドを傷つけるのはやはりまずいと思います。

逆に認知症でも喜びや楽しいという情動も残っています。
過去や未来がなくても、今楽しく過ごすことを優先して
みては如何でしょうか。

『安楽死に至るまで』

この本は、今私がTwitterでフォローさせて頂いている、
くらんけさんが書かれた本です。
くらんけさんは、スイスで安楽死(正確には介助自殺)
の権利を得ている方で、この本は「スイスで安楽死の
権利を得るための手順」が書かれています。
安楽死反対の方にはとんでもない本ということになります
が、安楽死を切に求めている方にとっては、これだけの
知識をネットや本で集めるのは大変だと思いますので、
とても価値の高い本になると思います。
それだけでなく安楽死そのものの知識・仕組みについても
大切なことが書かれていますので、安楽死の知識を得る
にもとても良い本です。

そして本の中でとても大切で私も非常に共感する部分
は、「心のセーフティネット」としての安楽死、
「豊かに生きるための安楽死」という部分です。

実際、スイスの自殺ほう助団体Dignitasによると、厳格な
審査をパスしほう助可能とされた患者のうち実に約7割が、
一度もほう助の日の予約さえしなかったという調査結果を
発表しています。

とくらんけさんは書いています。実際、くらんけさんも
「安楽死の権利」に助けられ、今生きて情報を発信されて
いるのです。いつでも自分自身の選択を尊重しほう助して
もらえるという確信が、逆に生きる力になることが、
実は結構多いのではないかと私も思っています。これって
素晴らしいことではないですか?

他に反省を込め共感した言葉があります。

日本の医学部では、人の命を救う教育ばかりに重きが置かれ、
尊厳とは何か、人命とは、といったことにはめっぽう弱い
ようです。少なくとも私は、QOLに対する意識や配慮が
とても浅い事が多いように感じています。

そうですね。医療者も「安楽死」以前に、尊厳や価値観、
生き方や死に方に共感する態度がもっと必要ですね。
医師が語る正論も、患者さんには結構きついことがあるの
ではないでしょうか。

そして、くらんけさんはもうひとつ重要な、家族に対する
態度にも触れておられます。

人間、誰しも生まれた瞬間から今この時まで、全く誰にも
支えられることなく生きてきた人はいないはずです。
ですから私は、介助自殺を決めても身内など最低限の周囲
からは尊重こそされずとも理解を得られるよう相互努力を
限界まですることを怠ってはならないと思っています。

自己決定とワガママは違うと。本当にそうですね。周囲の
気持ちにまで配慮するのは難しいと思っていましたが、
精神疾患の方が自殺を選択するのとは異なり、安楽死を選択
する方々はとてもクリアで冷静です。もちろんそうでない
と権利を得ることは出来ないのだと思いますが。
家族も、理解し尊重なんてなかなか出来ないですよね。
想像するだけでつらくなりますので…。

安楽死に反対の方も、是非読んで頂きたい本です。なにも
賛成して下さいとまでは思っていません。しかし、「自分は
反対だけれども」という立場でも、苦しんでいる人々が
実際にいるのですから、その想いは傾聴、尊重しなければ
いけないのではないでしょうか。共感も寄り添うことも放棄
し、何故「安楽死を誰も望まない世界」が実現するので
しょうか。耳を塞ぐことは、善ですか?愛ですか?
私も、まだ「緩和ケアの力で…」と「綺麗ごと」を言って
いたい気持ちもありますが、同時にそれだけではいけない、
逃れることは出来ない問題として、今安楽死について考えて
います。