Not doing but being

東京都大田区で開業している訪問診療医のブログ。主に緩和ケア、認知症、訪問診療、介護、看取り分野の話題です

私が行くまでもたせて下さい

9月6日にTwitterで私がこのような書き込みをしたところ、

人生の終末期に「心肺蘇生」をして意識が戻った人を
何人かみましたが、肋骨がボキボキになっている痛みは
相当なもののようです。全身状態が非常に悪いので、
食べたり普通に話したり笑ったりはとてもではないですが
出来ません。「受容」は本人ではなく、周りにこそ必要
だと思います。

多くの反応を頂きましたが、その中に遠方にいる家族が
「これから新幹線で向かいますから、それまで母を
もたせて下さい」
と言われ、2時間半心臓マッサージを行った、という
経験をお話して下さった方がいらっしゃいました。

これ、モヤモヤしますよね。おかしくないですか?
手順に従い心肺蘇生をするならまだ分かりますが、
蘇生した場合当然文章中にあるように肋骨が折れる
でしょうし、脳に重い障害が残る場合も多く、
悲惨な姿になった親御さんと向き合う覚悟はあるのか。
また逆に蘇生がうまくいかなかった場合、
2時間半の蘇生を希望するということはその間病棟で
処置や投薬を待っている他の患者さん達は苦痛に耐え
たり危険に晒されることになるのです。
誤解を恐れずに言えば、亡くなっている方はもう
苦痛を感じていませんが、そこにいる生きている患者
さんは今すぐの助けを必要としていることが多いのです

「死に目に会う」という言葉があり、亡くなる瞬間に
「隣にいる」ことが重要視されます。私としては
亡くなる/亡くなった患者さんの場合は物理的に隣にいること
よりも、心が繋がっていることの方が大切だと思いますし、
どうせなら意識があるうちに孝行して頂ければと思うのですが。
逆に本当に死の瞬間隣にいることにこだわるなら、自宅に
連れて帰り寄り添うべきでしょう。
「それが出来たら苦労しない」という方は、「死に目に会う」
は無理な場合が多いことは覚悟すべきです。

少なくとも、既に心臓が止まりそうな患者さんに意識が
あったり、なくなった意識が戻れば大きな苦痛を伴いますし、
意識がなければ、到着してもお母さんはお子さんのことが
分からないでしょう。「いや、気持ちは通じる」という
なら、気持ちは遠くにいても通じているでしょう。
ですので無理な「死に目に会う」は孝行でも何でもなく
結局自分のための「もたせて下さい」であることに気付くべき
ではないでしょうか。気持ちは分かりますが、やはり変です。

しかし医療者側も「野暮なこと」は言わず、心肺蘇生のフリ
をすることもあるようです。ご家族が到着した時に心臓
マッサージを行い、「間に合いましたね、御臨終です」と
言うわけです。個人的にこれもモヤモヤしますが、一種の
優しさなのでしょうから。いずれにしても、心臓を押して
いれば「生きている」というのも何か違う気がします。
死の瞬間を思い通りにすることなど出来ないのです。
結局死の間際まで向き合って来なかった御家族に、この
ような無理な依頼が多いです。常に患者さんに寄り添い、
苦楽を共にして来た家族であれば最期の瞬間だけにこだわる
必要はないのではないかと思うのです。

緩和ケアは安楽死を望む人を救えるのか

47NEWSの『安楽死を問う』の4回目は、西智弘先生でした。

www.47news.jp

西先生は、2020年7月に、『だから、もう眠らせてほしい』と
いう、安楽死と緩和ケアについての本を出版されました。
私も8月9日のブログでこの西先生の本について感想を書かせて
頂きました。

kotaro-kanwa.hateblo.jp

私も緩和ケア医としての願いは、緩和ケアによって安楽死が
必要なくなることです。ただ、考えれば考えるほど、そんな
ことが出来るのだろうかという疑問が生じます。

まず、西先生もおっしゃるように心の問題、精神的な苦しみ
には緩和ケアはほぼ無力です。もちろん安定剤や傾聴のスキル
を学ぶことで多少役に立てることはあるかもしれませんが、
いくら時間をかけて患者さんの話を真剣に聞いたとしても、
医療者が出来ることはたかが知れています。

そして身体的な苦痛にしても、100点満点の緩和は出来ない
はずです。確かに、20年、30年前と比べると疼痛に対する
治療はとても進歩しています。しかし、「身の置き所が
ない」と形容される全身倦怠感や強い呼吸困難に、本当に
満足な治療は出来ているのでしょうか。身体の苦痛が
完璧にコントロール出来るならそもそも、「鎮静」など
必要ではないでしょうし、たとえ「耐え難い苦痛」では
なかったとしても、それで「十分」と考えてしまうのは
医療者の自己満足ではないのでしょうか。

そもそも、緩和ケアは非常に「医療者の自己満足」の
危険が大きい医療なのではないかと思います。緩和ケア
医は、どこまでそれに気付いているでしょうか。
患者さんが苦痛を訴えれば、傾聴せずに内服薬で解決
しようとしていませんか?自分の信念に、患者さんを
合わせるようなことをしていませんか?患者さんの
苦痛が「耐えがたい」かどうかすら、医療者が判断して
いませんか?「痛みは自制内」って何ですか?

確かに、身体的な苦痛「だけ」で安楽死を望む方は、
適切に緩和ケアが行われればそれほどは多くないのかも
しれません。しかし、死を願う「ほどではない」なら
緩和ケアは十分なのでしょうか。

もちろん、西先生が書かれているように緩和ケアを
通じて、一人でも「安楽死をしたい」と思う人を
減らしたい。その想いは間違いなく私にもあります。
そして緩和ケアに携わる医療者の多くは一所懸命やって
いると思います。その姿勢を否定するつもりはありません。
ただ、私が今が言いたいのは「緩和ケア」は今のままで
決して満足してはいけないレベル
であり、
緩和ケアが広がらないことの原因のひとつは、患者さんの
期待にきちんと緩和ケアが応えていないことも原因では
ないかと思うのです。

偽りの希望は是か非か

昔、自分が書いたブログを読んでいて、代替療法に
ついて書かれた記事を見つけました。

blog.livedoor.jp

大部分の患者様は病気を受け入れ、自分が長くない事を
ご存知ですし、食品で癌が治らない事も理解されています。
しかし、同時に現実的ではないにせよ『がんが治る』
希望も何処かで持ち続けていたいのではないかと
思います。これは当然の気持ちではないでしょうか。
私のような弱い人間はその気持ちがよく分かります。
気休めを言う事は良い事ではありませんが、かと言って
非現実だから、と希望を全て否定し、貴方は死ぬしかない、
と強調する必要はあるのでしょうか?

私の代替療法についてのスタンスは、この頃と変わって
いないなぁ、と思いました。
ちなみに、この頃の私は

一方で難しい所は代替療法に熱心で、治癒・延命思考の強い患者様
はキュブラー・ロスの言う『受容』のプロセスが遅れる可能性も指摘
されており、代替療法がthe final stage of growth、つまり人生の
最後における患者様の心の成長を妨げるものではならないと
思います。一見矛盾するとも思えるこの部分をいかに上手く調和
させていくかが大切な事ではないでしょうか。

代替療法が『受容』のプロセスを邪魔してしまうのではないか、
等ということを気にしていました。今は正直、『受容』等と
いうものはあまり重要ではないと考えています。
『受容』なんて、目指したい人だけが目指せば良いです。
しかし、代替治療との『距離感』は場合によって危険です。

kotaro-kanwa.hateblo.jp

少し前の記事ですが、『代替療法』そのものが危険なのでは
なく、「すがる」ことが危険
というのが今の私の考えです。
「すがる」=視野が狭くなった状態です。
これは、対象が『代替療法』でなくても、カルトでも、いや
標準治療でも同じことです。
およそ現実的ではない希望のために大切な時間を失って
でも、場合によっては命を縮めてしまう段階であっても
抗がん剤治療が止められない。「エビデンスがあるから」
「保険が通っているから」良いと本当に言えるでしょうか。
まぁ、お金の問題についてだけ言えば少しは良いかもしれませんが。

「偽りの希望」についても同じです。希望が「偽り」か
どうかが重要なのではなく、盲目になっている状態が
問題です。いや、究極的にはそれも悪いとは言えないの
かもしれませんが、バランスの良い心の状態でないことは
確かだと思うのです。