Not doing but being

主に緩和ケア、認知症、訪問診療、介護、看取り分野の話題です

「身体拘束ゼロ」が生む悲劇

一昨日、Twitterで想いのほどを散々呟かせて頂いたのですが…。
私はもともと、「身体拘束を出来る限り減らす」は大賛成ですが
「ゼロ」という考えにはかなり抵抗があります。
そういった考えは過去にも、

kotaro-kanwa.hateblo.jp

また、

kotaro-kanwa.hateblo.jp

こういったところで書かせて頂きました。

今回の呟きの発端は、身内が急性期病院から療養型へ移り、
そこで療養を始めたことにあります。身体のバランスが悪く
何度も車椅子からずり落ち、両足があざだらけになっている
にも関わらず、「車椅子のベルトは抑制に当たるので当院では
出来ません」の一点ばり。また転倒を起こし、頭を強く打ち
つければ命に関わるかもしれないのに、決まりだからとベルト
を締めてもらえない、という出来事でした。

その時のTwitterでは、「うちは拘束は出来ないから」と
入居を断られるケースがある、と複数の方から情報を頂き
ました。拘束が必要な方を、色々な工夫で拘束しなくても
済むようになった、というのであれば素晴らしいのですが、
拘束が必要な方を断った結果、あるいは拘束せず放置した
結果が「ゼロ」であるなら、それはどれだけ評価すべき
なのでしょうか。

確かにきちんとした手続きを踏まずに拘束することは違法と
されており、施設ではそのハードルがとても高いです。

しかし、赤ちゃんをベビーカーや椅子に乗せる時は親はベルト
は必ずしています。しておらず落下すれば、親はきっと虐待
的な扱いを受けることでしょう。同じく自身で安全を確保
出来ない高齢者に、安全のためにベルトをすることが何故拘束
なのでしょう。

結局施設から断られた患者さんと家族がどうなるのか。
自宅での介護しか方法はありませんが、自宅でも行政や
サービス担当の方から「あれは拘束」「これは虐待」と
言われ続けるのです
。で、逆に自由にして高齢者が
徘徊から問題を起こせば監督責任はどうだこうだと。

高齢者の人権は分かりますが、介護者の人権はないのですか?

「身体拘束ゼロ」。日本人はゼロが好きです。交通事故ゼロ
はもちろん良いですが、例えば医療で聞くフレーズは「がんの痛み
ゼロ」、緩和領域では「セデーションゼロ」は?。それぞれ目指す
方向は異論なくとも、それぞれゼロの結果よりも患者さん自身や
家族の想いや考えが優先されるべきケースはいくらでもあります

ある患者さんにとっては痛みが残っていても眠くない方が良い
ですし、セデーションしないという医療者の目標のために
患者さんが苦しんでいるならそれは本末転倒ではありませんか

「身体拘束ゼロ」は誰のためですか?「マスコミ」ですか?
「人権主義者」の皆さんのためですか?「医療者・介護職員」ですか?

「御本人」ではないのですか?

本人不在でルールや目標が先行しているから、結局あざだらけ
で痛がっている患者が、また転落するであろう椅子に今日も
座らされているのです。