Not doing but being

東京都大田区で開業している訪問診療医のブログ。主に緩和ケア、認知症、訪問診療、介護、看取り分野の話題です

beingが苦痛な時は

新城拓也先生のブログ記事から。

drpolan.cocolog-nifty.com

新城先生は不器用なほどストイックで真面目に緩和ケア
に向き合っている先生、と私は勝手に思っています。お会い
したことがないので、あくまでブログの記事などからの想像
ですが。私も同じ道を歩んで来ましたので、共感出来る部分
も多いですし、私にない繊細な視点から気付かされることも
多くあります。

さて、上記のブログ記事は、私のこのブログのタイトルでもある、
「Not doing,but being」。「何かをすることではなく、ただ
そこに居ること」とでも訳しましょうか。私としては緩和ケアの
真髄に当たる部分だと思っているのですが、新城先生は
(居続けることなんて)出来ない、とおっしゃっています。
そして「現場に留まるつらさ」を繰り返し述べておられます。

新城先生の葛藤は、おそらくbeingを文字通り患者さんの横に
寄り添い続けよ、と捉え、真面目に寄り添い続けた結果、
御自身が経験した苦痛・苦悩をおっしゃっており、「人はdoing
しなくては自分を見失い、beingなど出来ない」というひとつ
の結論のようなことを書いておられました。

これまた共感する部分はありますが、私は「Not doing,but being」を
もう少し気楽に考えています。まぁ、両者を比べればdoingの方
がずっと簡単で、医師であれば言わなくても皆doingをしようとします。
そして自分の知識やスキルを活かし、患者さんの苦痛を減らし、時には
笑顔が見られるなら、それを喜びと満足感を感じる人が多いでしょう。

しかし、医師として出来ることは徐々に少なく、成果が出にくく
なっていきます。そこで自分の知識やスキルが自分の存在意義
だと考えていれば、患者さんに向き合うことが苦痛になって来ます。
その時に新城先生のように苦痛を感じる人はいるでしょう。
それはそれで良いと思います、無理に、嫌々寄り添う必要はないです。
私はそう思います。色々なタイプの人がいて、職種の人がいて、
チームなのですから。全部ひとりでやる必要はなく、助け合って
自分に出来ることをやれば良い。

先生は繰り返し「退屈」という言葉を使っておられました。ちょっと
驚きましたが、本当に正直な先生だと思います。ただ、皆が皆、また、
いつも退屈で苦痛ではないと思います。私はむしろ、doingが
出来なくてもbeingがあるよ、と積極的にこの言葉を受け止めています。
私も確かにコミュニケーションが上手ではありませんし、患者さんとの
相性のようなものも確かにあります。ただ、心が触れ合ったと感じる、
笑顔になって頂ける瞬間もあります。そして、これもまた緩和ケアなんだ
と感じます(もちろん相手が本当に喜んでくれているかは分かりませんが)。

シシリー・ソンダースはきっと、無理なことを言って後世の医療者
を苦しめようとしたわけではないでしょう。後回しに、おろそかに
なりがちなbeingにも目を向けて下さいね、というお気持ちだったの
ではないかと。そして人間ですからうまく出来る人ばかりではなく、
うまくいく時ばかりではない。いや、「私はbeingがうまく出来て
いるよ」という人がいたら、たぶんその人は大切な何かが欠けて
いる人だと思います。無力を感じてもそれに絶望するのではなく、
謙虚に誠実に自分が出来ることを続けていく。

…結局それしか、ないですから。

身体拘束をしない同意書

樋口直美さんのツイートで、都立松沢病院の身体拘束軽減の
取り組みが特集されていることを知りました。樋口さんも
取り上げておられた、「身体拘束をしない同意書」について
なるほどと思いました。同意書自体は事故の免罪符的なもの
になってしまう可能性もありますが、拘束のメリットと
デメリットを、しないとはどういう事なのかを患者さんの
家族が理解し、考えるうえでは重要な役割になるかもしれません

「本人の尊厳を守る」ために、失うものがあります。
それは「安全」であり、また時に「効率的で効果的な治療」
であるかもしれません。

しかし、「やっぱりな…」というのが、ここ。

家族へ「当院は縛りません」
「そのために転倒のリスクがあります」と説明し
納得してから入院してもらうようにした

「納得してから入院」は立派に聞こえますが、裏を返せば
「納得しなければ当院には入院出来ません」
「入院には同意書が必要です」
という意味を暗に含んでいるということです。
例えば転倒を繰り返し、もう転ぶことがほぼ明らかな高齢者
であっても、「尊厳」の名のもとに「注意して経過観察」
されてしまうのです。

すると、拘束の必要な治療の場合松沢には入院出来ず、
周囲の病院に入院することになります。
結果、都立松沢の身体拘束は減りますが、
他の病院では増えることにもなり兼ねません。

大袈裟に聞こえるかもしれませんが、以前私はホスピス
勤務時代、都内の「当院は入院が14日までです。ご理解ある
方しか御入院出来ません」というホスピスから、困った
患者さんが何人もいらっしゃった経験があります。
ホスピスは一般的に在院日数が少ない方が優れたケアを
行っていると評価されることがありますが、
短期入院に納得した患者さんしか受け入れなければ
在院日数が短くなるのは当たり前
です。
「同意出来なければ他へ」
とは、そういうことなのです。

もちろん、都立松沢の取り組みの全てを否定しているわけでは
ありません。むしろ共感、同意出来るところが多く職員の意識
の改革など参考に出来ることもたくさんあると思いますし、
少しでも少なくしよう、短くしようという努力は必要です。
実際に拘束されず、辛い想いをせずに済んだ患者さんも多い
ことでしょう。
しかし知らずに患者さんよりも病院の理念・目標達成が
上に来るような本末転倒な事態になっていないか、
実質的に医療者の信念と異なる考えの患者さんを拒絶していないか
常に意識として持つ必要がある
と私は思っています。

ACPの診療報酬点数化

エムスリーに、ACP(アドバンスケアプランニング)の普及には
診療報酬化が必要だ、という提案が、全日本病院協会の総会で出た
ようですが…正直「またか」という想いで私は大反対です。

ACPについて、最近私はこんな記事を書きましたが、
kotaro-kanwa.hateblo.jp

まさにACPの『終末期相談支援料』化の予感しかしません。

上記の記事でも書いた通り、ACPは『プロセス』が大切ですが、
このような診療報酬によって無理に導かれたACPでは、
一方的な医療者からの説明に対して同意書をとる、という
程度になるのが関の山です。むしろ、形骸化したACPをみて、
「あぁ、こんなものがACPか」
と一般の人たちが思うなら、かえって逆効果かもしれません。

確かに、医療者にとってACPは時間もかかり、精神的な負担も
多い地道な作業です。それだけやって報酬がないのか、という
考えも分からなくもありません。しかし、いい加減気付くべき
です。残念ながら医療費の総額が増えるわけではありませんから、
ACPに点数がつくということは、他の診療報酬が削られるだけです。
そしてかえって、その『ACP加算』か何かをとるための、面倒で手間
な事務作業が増える、という結果になる
でしょう。良心的に時間を
割き、ACPに協力している医療者の足を引っ張ることにもなりかね
ません。

私は忙しい医療者の負担軽減という方向でも議論をして欲しい
と思います。ひとつは病院や診療報酬とは切り離した相談場所
の設置です。現役を退いた医師や看護師のほかに、法律家や
宗教家、AIの活用
があって良いと思います。
医師は医療判断の専門家であり、もちろん法律やカウンセリング
の知識やスキルがあるに越したことはないかもしれませんが、
それを全て、ただでさえ多忙な医師に任せ良い結果を期待する
のは無理があります。

そして何より、ACPの重要性を医療を受ける立場の患者さん、
家族がその重要性を認識し、いかに自分達にとって必要で
役に立つものなのか
が分からないと、いくら医療者が努力
したところで良いものが出来ないのは目に見えています。
啓蒙活動も含め、多職種の協力が必要です。本来のACPに
おいて恩恵を受けるのは医療者ではなく、他ならぬ患者さん
自身
なのですから。