Not doing but being

東京都大田区で開業している訪問診療医のブログ。主に緩和ケア、認知症、訪問診療、介護、看取り分野の話題です

「一番苦しいのは本人」ですか?

がんの末期に限ったことではありませんが、介護している家族
に向かって「あなたも大変だと思うけれど、御本人の方が辛いの
ですよ」等と声がかかることがあります。これは間違っていると
思います。もちろん、痛みや呼吸苦、嘔気などの身体的な苦痛を
感じているのは御本人です。しかし、家族は家族で別の種類の
苦しみがあり、他人が簡単に比較出来るものではないからです。
実際、ホスピス等で身内を看取った経験のある終末期の患者さんは
その時のことを振り返り、「私は看取る側の方がずっと大変
だった」等と表現される方が、特に女性はめずらしくありません。

家族は家族で、通院や何度もトイレにいく患者さんの介助、
せん妄・混乱した患者さんへの身体介助、不眠などの身体的な
負担はもちろん、御本人の苛立ちを受け止め(時には言い返して
しまい自己嫌悪になったり)、時には逃げ出したいほどの不安や
責任感に耐え、そして愛する家族を失う喪失感にも対峙しなければ
いけないのです。また、周囲の無理解にも苦しめられます。家族間
でも、特に介護をしない家族ほど、介護している家族を責める傾向
にあります。弱音を吐けず、孤独の中で苦しんでいる家族も多い
のです。少しでもそれが想像出来れば、たとえ励ましているつもり
でも「本人の方が辛い」等という言葉は掛けられないと私は
思います。

緩和ケアでは、家族も「第二の患者」であるという理解のもと、
家族向けの心のケアやカウンセリング等のプログラムを持って
いる場合があります。そこまで本格的でなくても、困っている
ことはないですか、と尋ね傾聴するだけでも支えられるのでは
ないかと思います。訪問診療や精神科領域でも以前から、家族
の負担への配慮は行われて来たと思います。時には御家族の負担
を減らすための処方を考えたり、長く傾聴の時間をとったり、
「レスパイト」といった考えもその一つの例です。ただ、まだまだ
不十分だと思います。

私の持論として、御本人を本当の意味で支えるには家族ケアは
必須です。介護者と患者が「家族」という集合体なので、患者
へのケアだけで緩和ケアが成功する方が不思議なのです。
きっと家族もまた、「否認」「怒り」「抑うつ」等の心理状態
を経験し、また「トータルペイン」とも言うべき様々な苦痛を
経験している
。ただ正直今の医療体制では、特に一般病棟の医療者
には「分かっちゃいるけど時間がない」のだと思います。
それであればひとまず頭のすみに留めて頂いたうえで、
積極的に緩和ケアチームや訪問医・訪問看護師を信頼し、
もっと「投げて」頂きたいと思っています。

「死の受容」に対する疑問(2)

昨日の続きになります。

kotaro-kanwa.hateblo.jp

昨日のブログでは、西先生のブログ記事、「患者さんは死を
受け入れられるのかどうか」を紹介させて頂きました。
そして我が国のホスピスがキュブラー・ロスの影響を強く
受け、まるで「死の受容」に至ることを「支援」することが
ホスピスのひとつの目的であるかのように認識されていたこと
をお話しました。

実は私も初めはそのように考えていました。確かに怒りや抑うつ
の中で最期を迎えるよりは、平安と感謝のうちに最期を迎える
方が幸福であるように思います。人間の苦しみが「欲望」「執着」
にあるとする仏教的な思想
とも一致するので、日本人には受け入れ
やすい考えなのかもしれません。

しかし臨床を続けていると「本当に全員が死の受容は出来るのか」
「受容を目指さなければいけないのか」「患者さんは本当にそれを
望んでいるのだろうか」、また、他人の「受容したかどうか」の
判断なんて意味があるのか、限られた時間の関わりで私達に
「受容に至る手伝い」が出来ると思うこと自体、おこがましくは
ないのだろうか
、等と色々な疑問が沸いて来ます。
昨日紹介した西先生のブログでも登場したような、

「先生、患者さんが受容出来ていないようなので、病状を
もう一度説明した方が良いのではないですか?」

というスタッフの言葉にも、西先生同様に私もそれをすること
が正しいことなのだろうか、と葛藤がありました。

医療者が死生観や目標・理想を持つだけであれば良いのですが
患者さんが「受容」しようとしまいと、あるいはどんなペースで
どのように歩もうとそれは患者さんの自由のはずです。

『病院で死ぬということ』の著書で有名な山崎章郎先生も、
以前日本ホスピス緩和ケア協会のニューズレターの中でこんな
ことをおっしゃっており、とても共感しました。

その頃は、今ほどスピリチュアルペインやそのケアの重要性が
行きわたっていなかった頃で、避けられぬ死をいかに受け止めて
いただくか、が課題のひとつでもあった
からです。しかし、
ホスピス緩和ケアの経験が積み重ねられるほどに、ケアを提供
する側が使用してきた「死」の受容という言葉は、実は、
そのような場面でのケアの展開があまり見えなかった頃の、
ケアを提供する側の未熟さ、あるいは「あなた死ぬ人、私
残る人」という提供者側の奢りから生じた言葉だったのでは
ないか
、と今、思っています。

※赤字は私が勝手に赤字にしています。

医療者にはもう治療手段がない段階で患者さんが病気と闘い続けよう
とすることは、医療者にとって戸惑い、困難を感じると思います。
また、闘い続けた結果サポート十分に行えず、緩和ケアが後手にまわり、
結果患者さんがより苦しむという経験もたくさん見ています。
しかし、だからと言って患者さんには「死を受容」しなければ
いけない義務はありません。

誰の、何のための受容なのか、医療者にとって都合の良い、
あるいは上から目線の「受容の強要」になっていないかどうか
は、
私達は常に自省する必要があるように思います。

「死の受容」に対する疑問(1)

3月28日、川崎市立井田病院の西先生がこんなブログを書いて
おられました。

https://www.buzzfeed.com/jp/tomohironishi/shihaukeirerarerunoka?utm_term=.yxG1bjPa#.end58z4Zwww.buzzfeed.com

Twitterでも散々絶賛したのですが、私がこの仕事をしながら
長年感じていたことを、とてもやさしくスマートにまとめて
おり、さすが西先生だなぁと思いました。

テーマは、「死は受け入れられるのか」。西先生はまず、
アドバンスケアプランニング(ACP)の説明と重要性を
お話された後で、50代のがん終末期の患者さん、Aさんの
例を紹介されています。

私も、Aさんのようなケースをどれだけ経験して来たことか。

初めにつらい治療は希望せず、穏やかな時間を過ごしたい、
と達観したようにも思える意思を伝えるAさん。
しかしいざ治療の継続が困難になると、免疫細胞療法や
高濃度ビタミン療法を望まれ熱心に治療を続けられます。
御本人はそれを「妻が望むから」と言い、妻は「本人が
希望するから」と話す。
そしてスタッフからのこの言葉。

「死が迫ってきているのに、夫婦ともに死の受け入れができていません。
先生からきちんと病状を説明したほうがいいのではないでしょうか」。

そうこうしているうちにAさんは治療を求めつつ自宅で
亡くなりました。そこで西先生は初めの疑問に立ち帰ります。

「そもそも人間は死を受け入れることは可能なのか否か」

Twitterでも書きましたが、日本では緩和ケアが普及するのと
ほぼ同時期にキュブラー・ロスの考え、特に死の受容の
5段階モデルと呼ばれる考えが入って来ました。
ロスのこの
モデルは今でもサナトロジーの基本として医療・介護の
テキストで説明されています。皆様も御存知のこの5段階モデルは
「否認」「怒り」「取引き」「抑うつ」「受容」と呼ばれ、
受容は怒りも抑うつもなく自らの死を受け入れ心に平穏が訪れた状態
とされています。

ロスの考えは、患者さんの言葉や行動の背景にどのような心理
があるのか、という推測からケアに活かす、という意味では
とても意味のある研究だったと思います。
しかし、「適切な
ケアが提供されれば、誰もが受容の状態に至る」と述べたこと
から、あたかも『緩和ケアの目的・ゴールは目の前の患者さんを
「受容」に導くことである』
、というような風潮が、当時の
緩和ケアにはあったように思うのです。

長くなりそうなので、申し訳ありませんが次回に続きます。