Not doing but being

東京都大田区で開業している訪問診療医のブログ。主に緩和ケア、認知症、訪問診療、介護、看取り分野の話題です

医師の信念と患者の気持ち

とても興味深い対談が連載中です。

www.kango-roo.com

少し前に御紹介した幡野広志さん(2017年に多発性骨髄腫を
発症。余命宣告を受けているフリーカメラマン)と、市立
井田病院の西先生の対談です。いきなり最初から幡野さんの
するどい直球で始まります。

早速ですけど、なんで医師は安楽死に反対するんですかね?

西先生の逃げない姿勢も素晴らしいと思います。
医師はこう考えると思う、という一般論と、
御自分の考えを並べ、誠実に返答されています。

これまでいろんな医師と話してきましたけど、
医師って患者の気持ちよりも自分の信念で動いてる
ように思うんです。

幡野さんの感じている疑問はまさにその通りで核心を突いて
いると思います。安楽死尊厳死・鎮静を同時に語ると誤解
を生むと思いますが、いずれにしても患者さんの意思が
蔑ろにされ、主に医師と家族で治療方針が決定されてしまう
風潮は確かにあります。悲しみを回避したい家族の気持ちと、
医師としての信念・プロフェッショナリズムが共通の方向を
向くことが多いのでしょう

安楽死は日本では認められていませんが、緩和ケアの一環と
して認められている終末期鎮静ですら、医療の放棄・敗北で
あると考え、実施すべきではないと考える医師が、在宅医や
緩和ケア医の中にすら、います。

しかし一方で、医師に信念がなく、「患者の言われたままに
有害な治療でもやってしまう医者」の存在も良いとは言え
るでしょうか。信念を持つことと患者の気持ち・希望に沿う
という、両者のバランスのとれた医療者こそ望まれていると
思います

そして胃瘻や鎮静といったものはエビデンスにより善悪を
判断するようなものではなく生き方、あるいは死に方の
問題ですので、御自分ではどうしても出来ないという場合
も、治療の選択肢提示や施行出来る医師・病院の紹介
くらいはして欲しい
な、と私は思います。

そしてもうひとつ印象深かったのは、医師が聞いてくれず
家族にも言えなかった自身の悩みを、否定せずに聞いて
くれたのは看護師さんだけだった、という幡野さんの言葉です。
家族も友人も、「そんなこと言うな、頑張れ」としか
言わなかった、と。これは傾聴ではなく、聞き手側が聞く
ことを拒否した言葉
なのです。

これに対して西先生はこう答えています。

医師のスタンスとは全然違う。
患者さんの話を、とにかくよく聞いてます。
生活という視点、生きるという視点から。

医師って、患者とのあいだに線を引いて客観視する職業です。
看護師は、そこを飛び越えて相手の方に入っていく。

これもとても大切な内容です。医師ばかりでは本当の
緩和医療は完結しません。むしろ癒し手の主人公は
看護師だと私は思います。

新しい『鎮静の手引き』について

今日は2018年9月に出た緩和ケア学会編の『がん患者の
治療抵抗性の苦痛と鎮静に関する基本的な考え方の手引き』、
略して『鎮静の手引き』について。これまでは緩和ケア学会
から、『苦痛緩和のための鎮静に関するガイドライン
が2010年に刊行されており、実質改訂版になります。
ガイドライン』と呼ばず『手引き』としたのは、
エビデンスに乏しく議論の中にある事柄について、
ひとまず学会としての立ち位置を明確にし、倫理的な
内容も含め現場で困っている臨床家に役立つ情報を
示そう、という考えによります。

まず、緩和ケア学会の立場として、
1.終末期のがん患者さんにはどのような対応を行っても
治療に抵抗性の苦痛が生じることがある
2.他に手段がない時に、鎮静剤を用いて苦痛緩和を図ろうと
することは医学的・倫理的・法的に正しい行為である

3.患者の意思尊重、チームでの意思決定が重要
であることを明言しています。

これまでのガイドラインと異なるところがいくつかあり、
主だったものとしては『鎮静の定義』。これまでの、
薬剤を用いて意図的に意識レベルを低下させる、という
ものから、「指定された薬剤を投与すること」に改め
られています。指定された薬剤は、ミダゾラムとフル
ニトラゼパムの注射、ブロマゼパムジアゼパムの座薬、
フェノバルビタールの注射と座薬、です。ハロペリドール
クロルプロマジンの注射はこの定義によれば鎮静に
該当しないということになります。別な問題や議論が
起きそうですが、分かりやすさという点では優れている
と思います。

また、『浅い鎮静』という言葉がなくなり、『調節型
鎮静』という言葉になりました。浅いという言葉の
定義の曖昧さに加え、意識レベルよりも苦痛の緩和が
出来ているかを重視した結果でSTASを用いて評価する
ことが推奨されています。持続的な深い鎮静(CDS
については、RASSを用いて定義しています。

『治療抵抗性』であるという言葉の定義、どこまで
治療をすれば十分か、という最も難しい問題にも、
出来る限り詳しく言及しています。病院か在宅か、
都心か地域かによってアクセス出来る治療は当然
ながら異なり、痛みについても、「まだTCAも
テグレトールも試していない!」等と引っ張れば、
当然ながら鎮静を望む患者さんの苦しみをいたずらに
延ばしてしまうことになります。

また特筆すべきは海外のガイドラインとの比較や文献
の検証。新城先生の『在宅において治療抵抗性の苦痛
は生じるか』でも、海外における在宅の鎮静の報告を
踏まえた渾身の出来になっています。このブログでも
述べているように、「在宅では決して鎮静は必要に
ならない」と主張する先生がおられますが、場所を
病院から在宅に変えただけで鎮静が全例不要になると
いうのはどう考えても怪しく
、きちんとしたアセスメント
がなされずに放置されていないかどうかケアマネや
看護師、家族が評価し、そして御本人が自らを守らな
ければいけないのではないかと考えています。

『自分らしく』とその限界

今日は緩和ケアにおいて大切な、患者さんの
「その人らしさ」を尊重するということについて
考えてみたいと思います。

「考えてみれば、ケアを提供する私達がそもそも
『自分らしさ』って何か、考えたことがない。」

どこで読んだか忘れましたが、こんなことを言う
方がおられました。しかし、私に言わせれば
『自分らしく生きる』とは何かを考えないで済む
人は、既に自分らしく生きられているのだと思います。

『自分らしく』『その人らしく』と言っても、
哲学でも倫理でもなく、特別なケアを言っている
わけではないのです。

これは、『自分らしくない』とはどういうことか
を考えてみるとよく分かります。例えば病院で、
ご自分の意思によらず命を延ばすための治療を
『我慢』して受けている状態ではないでしょうか。
治療に限らず、誰とどうやって過ごすのか、いつ
寝て起きて、食べて、好きなことをする。私達が
意識せず送れていた日常を、この先も意識せずに
続けていくこと。私はこれが『その人らしく』では
ないかと考えています。

この場合、そっくりそのまま、以前のままではなくても、
御本人が『こうしたい』という気持ちを表現出来れば、
新しく姿を変えた、その時点で最高の『その人らしさ』
を提供することが出来るかもしれません。

しかし、いくつか限界があります。まずは御本人が
色々な理由で決めることが出来ない場合は、介護者
(多くは家族)に判断が委ねられます。

また、御本人に意思がある場合も、介助者や医療者が
「それは適切ではない」「ワガママだ」と考える場合。
喫煙やアルコール、外出等がその例になるかもしれません。
この場合、御本人と御家族(介護者)が衝突したり、
どちらかが我慢を強いられるような状況になるかも
しれません。

どうも今の医療・介護は何も考えないでいると御本人が
「少しでも長く生きる」ことをゴールに「管理」し、
あれこれ我慢させる指導やケアに傾きがちです。
これもひとつの価値観ではありますが、そのように厳しく
したところで、どれだけ御本人にメリットがあるのかも
考える必要があるのではないでしょうか。

どうせもうすぐ死ぬのだから、好きにさせてよ

と私なら考えると思います。もちろん明らかに御本人に
害があることを止めることが間違いと言っている訳では
ありません。ただ、援助する側が『その人らしさ』を
意識することが大切なのではないかと私は考えます。