Not doing but being

東京都大田区で開業している訪問診療医のブログ。主に緩和ケア、認知症、訪問診療、介護、看取り分野の話題です

「患者の自己決定」の難しさ

40代の女性が、人工透析を拒否した結果亡くなった、という
話が話題になっています。要点をまとめると、

1.透析を止めると2週間くらいで亡くなるという話を聞いたが
この時点では強い意思で拒否。同意書にもサインしている。
2.症状が苦しくなり、夫には透析再開しようかな、という気持ち
の変化を伝え、外科医も理解していた。
3.しかし、結果として透析は行われず、女性は亡くなった。

女性が亡くなる前に、夫に宛てて「たすけて」と書こうとした
と思われるメールも公開されています。

世の中の反応は、「女性の気持ちが変わったのに透析を
しないなんて、なんてひどい医者だ」というものが多い
ようです。ただ、私は本当に、「患者の心変わりを、
主治医が許さなかった」というような問題なのだろうか

という疑問があります。

毎日新聞の記事のひとつに、このような記載がありました。

外科医は「するなら『したい』と言ってください。逆に、
苦しいのが取れればいいの?」と聞き返し、「苦しいのが
取れればいい」と言う女性に鎮静剤を注入。
女性は16日午後5時11分、死亡した。

これを読むと、医師は透析再開の意思があるのか確認をして
います。詳細が書かれていないので分かりませんが、私は
この時に、どのような状況でどのような話し合いが持たれたか
によって、話が随分変わって来ると思いました。
実はこのケースでは、不幸なことに最後の大切な話し合いに
夫が緊急手術で参加出来なかったのです。結果として主治医は
上記を患者の意思と捉え、苦痛をとる方法をとりました。

この痛ましい事件から、私達がいくつか学ぶべき内容が
あります。

まず、「患者の意思」は揺れて、変わって当然であるということ。
想像した経過と、実際の身体の変化が違うということはよく
あります。「自宅で死にたい」という患者さんが、死の不安や
苦痛から入院を希望される、ということは、ありふれたことです。

また、人間は死の過程できちんとした意思表示が難しくなるもの
です。腎不全の場合も尿毒症が起こると精神・神経症状も伴う
ことが多く、死の直前はせん妄等も出現し最終的には御自分の
明確な判断・意思表示が困難になるのが普通です。それを
見越した、家族や主治医・医療チームとの話し合いが重要です。

そして、「十分な話し合い」が重要なのは間違いありませんが
どうやってそれを実行するのかはとても難しいということ。
医療者には、時間がなさ過ぎます。女性が入院して亡くなるまで
2日程度であった。既に尿毒症症状が出ていた患者と誰がどう
やって十分な話し合いをするのか。外科医の担当がこの女性
だけであればともかく、同様に重大な疾患をもった多くの
患者さんを診ていたのは想像に難くありませんから、システム
として整えない限り同様の悲劇が繰り返される可能性があります。

また、もうひとつ。外科医が、「透析中止」の選択肢を告げた
こと、また「患者自身に選択させるのは酷」という意見も
ありました。おっしゃる気持ちは分からなくもないのですが、
いくら患者の気持ちが「揺れる」ものであったにせよ、これは
患者の「延命治療を中止する意思を否定する」ものでもあります。
患者の意思は、「揺れる」から「無効」ではないのです。
患者自身に選択させるのが酷なら、誰が選択するのですか?
…だから、難しいのです。みんな、悩んでいるのです。

「緩和ケア」が敬遠される理由

当該記事のコメントを見ると「緩和ケアを選ばなくてよかった
って言える人生を過ごしてほしい」「緩和ケアは本当に必要
最低限な処置しかしません。治療や心電図をつけたりは一切
しません。家族にとっても本当につらい病棟です」
等とあり、悲しい(個人の批判ではありません)。
これが現実。頑張ります。

堀ちえみさんが手術を受けた記事に付いたコメントを見た、
大津秀一先生のtweetです。未だに日本では、治療or緩和と
二者択一であるかのような誤解が絶えません。

原因のひとつは、恐らく緩和ケアを日本に紹介した先人達が
まず強烈なインパクトを受けたのが「ホスピス」という病棟
であり、鎮静を含めた「ターミナルケア」であったのでは
ないかと思います。そのような発想がない国から来た人には
それは当然のことだったのではないでしょうか。ただ、
仕方ないことではありますが、「亡くなる方の苦痛の緩和」
という説明でこの国に入って来てしまった。

緩和ケアのもとになったpalliativeの語源は、「外套を着せる」
という意味であったと聞いています。困った人を助ける意味
で、ここには終末期という意味は含まれません。
日本でもその後、緩和は終末期に限ったことではないとして、
「緩和ケア」という言葉を使うに至りました。
ホスピスも、「緩和ケア病棟」と呼ばれることが多くなり
ました(尤もホスピスは宗教的なニュアンスが含まれるから、
という事情もあるかと思いますが)。

しかし、この転換もうまくいかなかったのではないかと私は
感じています。つまり「ホスピス」を「緩和ケア病棟」と言い
替え、入院の基準から「余命六か月以内」という文言が消え
ても、実質緩和ケア病棟にはがんの治療が終わり余命の
限られた方しか入院出来ないのが現実です。「緩和ケア」も
残念ながら「ターミナルケア」の言い方を替えただけという
印象が既に根付いてしまっています。

「早期からの」緩和ケア、という言葉も誕生しました。そう
としか言いようがないのでこれも仕方ないのですが、早期
って…?という疑問や、早期「から」という言葉が、病の
当事者には終末期「まで」を繋げて連想してしまうのでは
ないかと…考え過ぎかもしれませんが思ってしまいます。
もちろん、本当のニュアンスでは、『早期「でも」緩和ケア』
なのですが…。

こういった歴史があるので、緩和ケアはどうしてもその先に
「死」があるかの誤解が拭えません。また、残念ながら緩和
に携わることのない医療者も、無意識だとは思いますが、
緩和ケアの言葉を終末期とごちゃごちゃにして使っています。
実はこの、医療者の認識が一番緩和ケアの理解を妨げている
のかもしれません。

緩和ケアとは単に「より良く生きる」ための医療者の手伝い
に過ぎません。病状が深刻になるほど、助けが多くなるのは
事実ですが、本来の緩和ケアは病気のステージに関係なく、
必要としている人に提供されるもので、「治療」と「緩和」
の関係は、orで結ばれるものではなく、andで結ばれるもの
であることを知って頂ければと思います。

医療連携の難しさ

昨日は、地域の医療・介護職の集まりに参加しました。
毎回活発な情報・意見交換があるのですが、昨日は
医療連携の難しさについて、でした。

在宅をやって8年になりますが、医療連携については一貫して
ほぼ全員に共通した悩みだと感じています。たまに悩みが
ないという人もいますが、それはきっと周囲がその分悩んで
いると思ってほぼ間違いない
でしょう。

何故難しいか、その難しさを一言で言えば人と人との「相違」
です。医療者同士でも、価値観や信念、仕事に対する考え方
などが大きく違うからです。例えば仕事に対する「情熱」の
温度差
。私などは24時間携帯を持ち連絡を受けるのが
当然の生活をしていますし、休みでも時間外でも大切な連絡は
むしろすぐに頂きたいと思う方ですが、パートでなくても
休みは休みとメリハリをつけた生活を望む方も当然多いと思います。
大学病院の先生や看護師さんは、エビデンスに基づいた「正しい」
医療を優先する傾向にありますが、訪問診療・訪問看護では
優先事項が患者さんや家族の生活や幸福であったりします。

連絡の手段についても毎回話題に上がりますが、これもそれぞれ
が好む連絡手段が異なり、どの方法も一長一短だからでしょう。
一般には電話・FAXがよく使われます。FAXの方が忙しい相手を
配慮した良い方法とされていますが、私は電話の方が相手が
求めていることが分かりやすく返信の手間もないので有難いです。

最近はSNSのような手段も注目を集めています。
大田区では医師会主導で『カナミック』が広まりかけましたが、
利用者さんの登録が非常に(!)面倒で、表示も少し見にくい
ので、結局あまり使う人がいなくなっている状況です。
『MedicalCareStation』や『チャットワーク』はこの点かなり
簡便で使いやすいですが、やはりどれも登録が必要で、
みんなが同じツールを使わないとかえって面倒かもしれません。
また経験上、ツールに不慣れな方には使ってもらえないことも
当然あります。

結局連携を深めるには相手がどういった人かが分からないと
余計な気を遣ったり遣わせたり、怒ったり怒らせたり…と
いうことになります。そうそう、この「怒る」というのは
最低に近い行為です。たぶんコミュニケーションを最も
阻害する因子の一つです。どうしても怒らなければいけない
問題もあるでしょう。患者さんの危険や命に関わることなど。
しかし殆どは勘違いや機嫌の良し悪しなどの些細なことです。

そういうことで、私なりの結論としては医療職・介護職が
出来るだけ顔を合わせ相手の人となりを理解することに
尽きると思います。そこまでの関わりが苦痛な人も当然
いますが、なるべく足を運び顔を覚え、覚えてもらう。
これを意識しやっていこうと思います。冒頭に『相違』
という言葉を使いましたが、この違いの認識こそが
連携の第一歩
ではないかと思っています。