Not doing but being

東京都大田区で開業している訪問診療医のブログ。主に緩和ケア、認知症、訪問診療、介護、看取り分野の話題です

新しい『鎮静の手引き』について

今日は2018年9月に出た緩和ケア学会編の『がん患者の
治療抵抗性の苦痛と鎮静に関する基本的な考え方の手引き』、
略して『鎮静の手引き』について。これまでは緩和ケア学会
から、『苦痛緩和のための鎮静に関するガイドライン
が2010年に刊行されており、実質改訂版になります。
ガイドライン』と呼ばず『手引き』としたのは、
エビデンスに乏しく議論の中にある事柄について、
ひとまず学会としての立ち位置を明確にし、倫理的な
内容も含め現場で困っている臨床家に役立つ情報を
示そう、という考えによります。

まず、緩和ケア学会の立場として、
1.終末期のがん患者さんにはどのような対応を行っても
治療に抵抗性の苦痛が生じることがある
2.他に手段がない時に、鎮静剤を用いて苦痛緩和を図ろうと
することは医学的・倫理的・法的に正しい行為である

3.患者の意思尊重、チームでの意思決定が重要
であることを明言しています。

これまでのガイドラインと異なるところがいくつかあり、
主だったものとしては『鎮静の定義』。これまでの、
薬剤を用いて意図的に意識レベルを低下させる、という
ものから、「指定された薬剤を投与すること」に改め
られています。指定された薬剤は、ミダゾラムとフル
ニトラゼパムの注射、ブロマゼパムジアゼパムの座薬、
フェノバルビタールの注射と座薬、です。ハロペリドール
クロルプロマジンの注射はこの定義によれば鎮静に
該当しないということになります。別な問題や議論が
起きそうですが、分かりやすさという点では優れている
と思います。

また、『浅い鎮静』という言葉がなくなり、『調節型
鎮静』という言葉になりました。浅いという言葉の
定義の曖昧さに加え、意識レベルよりも苦痛の緩和が
出来ているかを重視した結果でSTASを用いて評価する
ことが推奨されています。持続的な深い鎮静(CDS
については、RASSを用いて定義しています。

『治療抵抗性』であるという言葉の定義、どこまで
治療をすれば十分か、という最も難しい問題にも、
出来る限り詳しく言及しています。病院か在宅か、
都心か地域かによってアクセス出来る治療は当然
ながら異なり、痛みについても、「まだTCAも
テグレトールも試していない!」等と引っ張れば、
当然ながら鎮静を望む患者さんの苦しみをいたずらに
延ばしてしまうことになります。

また特筆すべきは海外のガイドラインとの比較や文献
の検証。新城先生の『在宅において治療抵抗性の苦痛
は生じるか』でも、海外における在宅の鎮静の報告を
踏まえた渾身の出来になっています。このブログでも
述べているように、「在宅では決して鎮静は必要に
ならない」と主張する先生がおられますが、場所を
病院から在宅に変えただけで鎮静が全例不要になると
いうのはどう考えても怪しく
、きちんとしたアセスメント
がなされずに放置されていないかどうかケアマネや
看護師、家族が評価し、そして御本人が自らを守らな
ければいけないのではないかと考えています。

『自分らしく』とその限界

今日は緩和ケアにおいて大切な、患者さんの
「その人らしさ」を尊重するということについて
考えてみたいと思います。

「考えてみれば、ケアを提供する私達がそもそも
『自分らしさ』って何か、考えたことがない。」

どこで読んだか忘れましたが、こんなことを言う
方がおられました。しかし、私に言わせれば
『自分らしく生きる』とは何かを考えないで済む
人は、既に自分らしく生きられているのだと思います。

『自分らしく』『その人らしく』と言っても、
哲学でも倫理でもなく、特別なケアを言っている
わけではないのです。

これは、『自分らしくない』とはどういうことか
を考えてみるとよく分かります。例えば病院で、
ご自分の意思によらず命を延ばすための治療を
『我慢』して受けている状態ではないでしょうか。
治療に限らず、誰とどうやって過ごすのか、いつ
寝て起きて、食べて、好きなことをする。私達が
意識せず送れていた日常を、この先も意識せずに
続けていくこと。私はこれが『その人らしく』では
ないかと考えています。

この場合、そっくりそのまま、以前のままではなくても、
御本人が『こうしたい』という気持ちを表現出来れば、
新しく姿を変えた、その時点で最高の『その人らしさ』
を提供することが出来るかもしれません。

しかし、いくつか限界があります。まずは御本人が
色々な理由で決めることが出来ない場合は、介護者
(多くは家族)に判断が委ねられます。

また、御本人に意思がある場合も、介助者や医療者が
「それは適切ではない」「ワガママだ」と考える場合。
喫煙やアルコール、外出等がその例になるかもしれません。
この場合、御本人と御家族(介護者)が衝突したり、
どちらかが我慢を強いられるような状況になるかも
しれません。

どうも今の医療・介護は何も考えないでいると御本人が
「少しでも長く生きる」ことをゴールに「管理」し、
あれこれ我慢させる指導やケアに傾きがちです。
これもひとつの価値観ではありますが、そのように厳しく
したところで、どれだけ御本人にメリットがあるのかも
考える必要があるのではないでしょうか。

どうせもうすぐ死ぬのだから、好きにさせてよ

と私なら考えると思います。もちろん明らかに御本人に
害があることを止めることが間違いと言っている訳では
ありません。ただ、援助する側が『その人らしさ』を
意識することが大切なのではないかと私は考えます。

「毒」になる「善意」

9月終わりにPHP onlineに載っていた、幡野広志さん
の記事。一人でも多くの人に読んで、考えてもらいたい
と思います。

shuchi.php.co.jp

幡野広志さんは、多発性骨髄腫という病気で30代で
余命3か月の宣告を受けながら、情報を発信し続けて
いる、フリーのカメラマンです。

がんであることを公言した幡野広志さんがとても困った
こととして、周囲やブログを通して寄せられる、「代替
治療」や「宗教」の数々であったようです。

幡野広志さんはこのように安易に勧められる根拠のない
アドバイスを、「優しい虐待」と表現されました。

「何を大袈裟な、無視すれば良いじゃないか」
というのは、心身が健康な人の発想だと思います。
このようなアドバイスを、無視したり丁寧に断ったり
するには、しばしばとてもパワーが必要なのです。

しかも、記事にもある通り、どこからか電話番号が伝わり、
怪しい勧誘やお見舞い電話が増え、フリーのカメラマンで
ありながら電話番号を変えなければならなかったそうです。
また、「優しさ」を断った途端に、「生意気な患者」と
なり、悪者になってしまう、とも書かれていました。
きっと、こういった想いをされているのは幡野さんだけ
ではないと思います。

それでも、余命を宣告されたがんの方と、どう接して良い
か分からず「何か」を探してしまうという人も気持ちは
理解出来ます。しかし、「何か」をしなくても良いのだと
思います。もっと言えば、「何か」をしない方がいい。
頼まれた時だけ、頼まれたことを手伝えば良いのです。

他にもハッとさせられる文章がありました。

いいところだけを見せようと、希望だけを与えようとするのは
危険だ。希望がなくなったと気づいたとき、絶望が待っている。

たしかにガンの標準治療、そもそも医療の体制には問題もあるし、
自分だったら受けないような治療を患者にほどこしているのが現実。
とはいえ、彼らが民間療法を行うとも思えない。
少なくとも医療従事者は、プロとしてリスクを背負って実際に
治療をしている。

正直なところ、重大な病気の方と向き合うのは難しいと感じる
人は多いと思います。何を言っても、場合によっては言わなく
ても、相手を傷つけてしまうんじゃないか。また、そのように
思っている自分が嫌で、つい足が遠のいてしまうという人も
いるかもしれません。

治療を勧めることは、少なくとも勧めている方は、楽です。
自分は気分良くなれる。しかし、相手はそれ以上何も
言えなくなってしまうのです。
「これ以上病気の話は
するな」と宣告しているに等しい。そういう自覚は必要
だと思います。