Not doing but being

主に緩和ケア、認知症、訪問診療、介護、看取り分野の話題です

韓国で「尊厳死」の選択が可能に

10月23日より、韓国の一部の医療機関で「尊厳死」を選ぶことが
出来るようになりました。試験期間を経て、来年2月から本格的
に法が施行されるとのことです。

私は尊厳死法は賛成です。過剰な治療により苦しみ続ける患者さん、
そして介護者(家族)を本当に本当にたくさんみて来たから
です。

そんな中今朝、文筆家の平川さんのツイートが流れて来ました。
私が思ったことを書かせて頂こうと思いますが、死生観なので
なにが正しい、間違っているとはなかなか言い切れない問題
だと思います。なので、平川さんと異なる立場ではありますが、
また文章にすると言葉はきつくなってしまうかもしれませんが
非難する気持ちは全くないことを初めにお断りしておきます。

日経新聞から、尊厳死に関する取材をうける。「尊厳死」という言葉自体が、いかがわしい。死に尊厳もくそもない。病気で死のうが、戦争で死のうが同じだ。「尊厳死」はかならず、「尊厳生」へと結びつく。死に方を選別することは、生き方を選別することにつながる。

「尊厳死法」が命の選別になるという意見は、私は少し飛躍して
いると思います。また、どんな死も同じ、尊厳死はいかがわしい
と感じるかどうかも人それぞれですから否定はしませんがこれは
単なる感情論です。

リビングウイルとか、尊厳死法案にみるいかがわしさの正体。自分の死は、自分の意志で決めていいし、自分の責任であり、医師は免責される、か。自分の意志など、信じてはいけない。二十歳のときの意志など、還暦になれば意味を失う。そもそも、意志は、自分で思っているほど自分のものではない。

『自分自身の意思など、信じてはいけない』これも極論です。
二十歳と還暦で考え方が違うのは分かりますが、では去年は?
先月は?昨日は?一時間前は?突き詰めると「患者の意思など
信じてはいけない」ということになりませんか?
そして、一方で家族や医療者の意思は「信じる」のでしょうか?
リビングウィル(アドバンストケアプラニング)を書いた時点
と今とでは患者の気持ちも変わっているかもしれない、という
のはあくまで『かもしれない』であって、同じかもしれない
また、だから周囲が勝手に決めて良い、あるいは延命の限りを
尽くさなければいけない、という現状に疑問を持つ人が多く
なっているからこそ、尊厳死の議論が出て隣国で新しい法律が
施行されるようになったのではないかと思います。

延命治療をどこまでするか、本人も家族も医師も悩むだろう。その悩みのプロセスを端折って、簡単なガイドラインを作るのは馬鹿げている。悩みのプロセスこそ、必要なことであり、死の潮時を見出すための必要な時間だ。介護をしながら、つくづく、考えたこと。

これは確かにそうですが、現在議論されている「尊厳死法」は、
単に本人の意思があれば自動的に尊厳死をしなければならない
という法律ではありません
。家族の同意、専門家の判断のうえで
慎重になされるもので、決してプロセスを端折ろうとするものでは
ありません。平川さんは当然内容を御存知のはずで、何故こういう
書き方をするのでしょう。

何故、こうも「苦しまない最期」を選ぶ権利が否定されてしまう
のでしょうか。平川さんのような考えが尊重されるべきである
のと同様に、尊厳死を望む人々もいる。どちらかでなければならない
という考えは不自然です。しかし、いつも思うのですが尊厳死に
反対の方は御自分の最期は家族や医療者に任せたい、あるいは
とことんまで延命治療を受けたいと思っておられるのでしょうか。