Not doing but being

東京都大田区で開業している訪問診療医のブログ。主に緩和ケア、認知症、訪問診療、介護、看取り分野の話題です

病気と居場所

前回、野田あすかさんの本から居場所について思ったことを
書いてみました。居場所とは、気持ちの通じる相手がいて、
「このままで、居てもいい」と思える場、そこにいれば
「頑張れる場」のことだと私は思っています。今日はこの
「居場所」を医療の側面からも考えてみようと思います。

病気になったからと言って、すぐに居場所がなくなると
いうことはありませんが、病気が進行するにつれ、
居場所が少なくなっていくことが多いのではないでしょうか。
身体や気持ちが思うように頑張れなくなると、職場、
コミュニティや社交の場、場合によっては家庭においても
自分の居場所がないように感じる人もいるかもしれません。
実は私は今「病気」と書きましたが、
「老い」でも同様のことが起こり得ます。

「迷惑を掛けている」という気持ち。実はこれは、
「自分は今のままで、ここに居ていい」という「居場所」
とは、正反対に近い気持ちなのではないかと私は思います。
もちろん周囲は「そんなことはない」「迷惑ではない」と
考えると思いますが。

例えば施設に入居している年配の方々の中には割合に元気で
本当は色々な活動が出来る方もおられます。
施設でも色々なイベントが工夫され、お祭りをしたり
紅葉を観にいったり。良い時間が過ごせそうなものですが、
それでも「生きていても意味がない」とおっしゃるのは、
やはり居場所のなさを感じておられるからではないかと
思うのです。

余談ですがグループホーム等では比較的お元気な方に
洗濯物を畳んだり食器を並べる等の簡単な手伝いを
お願いしていることがあります。色々な意味がある
と思いますが、「役に立てている」という気持ちが、
御本人の居場所作りにも良い側面があるのかもしれません。

「宗教」はある意味、究極の居場所になり得るものだと
思います。それは「お寺」「教会」というコミュニティ
だけではなく、「神」的な存在が、ありのままの自分を
常に受け入れてくれるという「信仰」です。
ただし、「スピリチュアルペイン」という言葉もあります。
日本人には理解が難しいので、「生きがい・生きる意味」
の喪失と訳されたり理解されている言葉ですが、
実はもともとのスピリチュアルペインは「神との断絶」
という意味合いも含まれます。断絶というと語弊がある
かもしれませんが、神の前にあっても安らげない苦悩
がある、言葉を変えれば信仰があるからと言って、それ
だけで誰もがいつでも平安で居場所を持てる、とは
いかないのだと思います。

もちろん、「居場所かどうか」は0か100か、というもの
ではありません
し、「居場所」に対する気持ちも変化します
最終的にはやはり「自宅」が居場所だと考える人が多く、
だからこそ自宅に帰りたいと願う患者さんは多いです。
「人」も居場所になり得ます。居場所となることを意識する
だけで、何か出来ることが見つかるかもしれません。