Not doing but being

東京都大田区で開業している訪問診療医のブログ。主に緩和ケア、認知症、訪問診療、介護、看取り分野の話題です

鎮静と安楽死

ここ最近、以前と比べて安楽死の議論がさかんになって来た
ように思います。写真家幡野広志さんのブログやTwitter
影響も少なからずあるのではないかと思います。
緩和ケアには、「鎮静」という治療が以前からありました。
患者さんの苦痛を取り除くために薬を使い、意識を落とす
治療を言います。

この鎮静は、ガイドライン等において安楽死と以下の点で
異なると明記されています。

1.目的が違う…鎮静は患者さんの耐え難い痛みを取るのが目的
2.使用する薬剤が異なる…鎮静で用いられるのは睡眠薬
抗精神病薬・抗痙攣薬であり、患者さんの命を終わらせる
「致死量の毒物」ではない。
3.成功した場合の結果が違う。鎮静のゴールは「患者さんの
死」ではなく、苦痛の緩和である。

この他に、「相応性」として、
1.耐え難い苦痛がある
2.苦痛は主治医単独ではなく医療チームにより治療抵抗性
と判断されている。
3.原疾患のために2~3週以内に死亡が生じると考えられている

ところが、鎮静のガイドライン(最新版は「手引き」)の
執筆者の一人、新城拓也先生が一昨日こんなツイートを
されました。

安楽死と鎮静は違うというその見解は
そろそろ無効になってきてます

これを他ならぬ新城先生が言ってしまったことに
私はかなりショックを覚えました。

新城先生の動揺は、こちらのブログにも書かれています。

www.buzzfeed.com

新城先生は、ブログの中で御自分が正しいと信じて行って来た鎮静が
一般的には安楽死と同一視されていた(いる)のではないかと
述べています。

しかし、私はこの記事を何度読んでも新城先生の動揺の理由が
今一つ分からないのです。今更感・違和感が拭えないのです。

安楽死と鎮静を、「患者の死」という目に見える結果だけ切り取って
同一視する人達は昔からいます。しかし、人間は目に見えない想いや
信念というものを持っており、そこに見を向けることの出来る人は
安楽死と鎮静を同一に考えることはしないでしょう。

そして患者にも医師にも「目に見えない大切なもの」がある限り、
仮に安楽死が日本で合法化されたとしても、安楽死は鎮静の代わり
にはならない、それでも鎮静を選ぶ人はいる
と確信しています。
これは、オランダなど安楽死が行われている国々でも、多くは自然死
や鎮静によって亡くなっているという事実からも分かります。
また、認知症の方、判断力が失われている方では安楽死は受けられ
ませんが、鎮静は御本人が意思表示が出来なくなっても苦痛を緩和
する手段として家族の同意をもって慎重に行われています。

一方で、安楽死を必要としている人がいることも知っています。
鎮静もまた、安楽死の代わりにはなりません。癌以外の疾患には
今のところ鎮静は、少なくともCDSは、提供されることは殆どない
と思います。

安楽死が議論されるようになった今だからこそ、私達が鎮静の概念
をしっかり伝えるべき時だと思います。仮に安楽死と鎮静を同一
に考える声が大きくなってるとしても、緩和ケア医までもが
そこに巻き込まれてしまって良いのでしょうか。