Not doing but being

主に緩和ケア、認知症、訪問診療、介護、看取り分野の話題です

「死の受容」に対する疑問(2)

昨日の続きになります。

kotaro-kanwa.hateblo.jp

昨日のブログでは、西先生のブログ記事、「患者さんは死を
受け入れられるのかどうか」を紹介させて頂きました。
そして我が国のホスピスがキュブラー・ロスの影響を強く
受け、まるで「死の受容」に至ることを「支援」することが
ホスピスのひとつの目的であるかのように認識されていたこと
をお話しました。

実は私も初めはそのように考えていました。確かに怒りや抑うつ
の中で最期を迎えるよりは、平安と感謝のうちに最期を迎える
方が幸福であるように思います。人間の苦しみが「欲望」「執着」
にあるとする仏教的な思想
とも一致するので、日本人には受け入れ
やすい考えなのかもしれません。

しかし臨床を続けていると「本当に全員が死の受容は出来るのか」
「受容を目指さなければいけないのか」「患者さんは本当にそれを
望んでいるのだろうか」、また、他人の「受容したかどうか」の
判断なんて意味があるのか、限られた時間の関わりで私達に
「受容に至る手伝い」が出来ると思うこと自体、おこがましくは
ないのだろうか
、等と色々な疑問が沸いて来ます。
昨日紹介した西先生のブログでも登場したような、

「先生、患者さんが受容出来ていないようなので、病状を
もう一度説明した方が良いのではないですか?」

というスタッフの言葉にも、西先生同様に私もそれをすること
が正しいことなのだろうか、と葛藤がありました。

医療者が死生観や目標・理想を持つだけであれば良いのですが
患者さんが「受容」しようとしまいと、あるいはどんなペースで
どのように歩もうとそれは患者さんの自由のはずです。

『病院で死ぬということ』の著書で有名な山崎章郎先生も、
以前日本ホスピス緩和ケア協会のニューズレターの中でこんな
ことをおっしゃっており、とても共感しました。

その頃は、今ほどスピリチュアルペインやそのケアの重要性が
行きわたっていなかった頃で、避けられぬ死をいかに受け止めて
いただくか、が課題のひとつでもあった
からです。しかし、
ホスピス緩和ケアの経験が積み重ねられるほどに、ケアを提供
する側が使用してきた「死」の受容という言葉は、実は、
そのような場面でのケアの展開があまり見えなかった頃の、
ケアを提供する側の未熟さ、あるいは「あなた死ぬ人、私
残る人」という提供者側の奢りから生じた言葉だったのでは
ないか
、と今、思っています。

※赤字は私が勝手に赤字にしています。

医療者にはもう治療手段がない段階で患者さんが病気と闘い続けよう
とすることは、医療者にとって戸惑い、困難を感じると思います。
また、闘い続けた結果サポート十分に行えず、緩和ケアが後手にまわり、
結果患者さんがより苦しむという経験もたくさん見ています。
しかし、だからと言って患者さんには「死を受容」しなければ
いけない義務はありません。

誰の、何のための受容なのか、医療者にとって都合の良い、
あるいは上から目線の「受容の強要」になっていないかどうか
は、
私達は常に自省する必要があるように思います。