Not doing but being

東京都大田区で開業している訪問診療医のブログ。主に緩和ケア、認知症、訪問診療、介護、看取り分野の話題です

ACPは延命中止を決めることですか?

本日の、新城拓也先生のツイートの紹介から。

最近あちこちで見かけるアドバンスケアプラニングの弊害は
本当にひどくて、患者の治療を受ける権利を著しく奪って
いると思う。延命治療をする・しないも
医療者の側の業務的な連絡事項になっている。

私も普段から同じことを考えていましたので、多いに同意
しました。確かに医療者が「この人は延命しない人」と
決めてしまい、その後は下手をすると延命以外の治療も
提供してもらえなくなりそうな危うさを感じることがあります

しかし、だからと言ってこのブログの内容になると、
ちょっと言い過ぎのような気もします。

drpolan.cocolog-nifty.com

ACP(アドバンス・ケア・プラニング)自体が問題なわけ
ではないはずです。ACPは多くの病院・先生が苦労して進めて
来ました。リビング・ウィル代理人決定にとどまらず、
「対話のプロセス」に重点が置かれ、継続的に話し合うことで
患者さんの意思・想いの尊重と、家族の心理的負担を軽減する
ことを目的として進められて来ました

問題があるとすれば、医療者の側の認識不足や、余裕のなさで
きちんとしたACPが行われていないということです。

2008年に開始されてすぐに凍結された「終末期相談支援料」と
いうものがありました。終末期の治療方針を患者さんと医師が
事前に話し合い文書でまとめた場合に医療機関に支援料が
支払われる仕組みでした。しかし、ちょうど新城先生が
おっしゃるような理由、衰弱した患者さんの延命中止を強要
するものになるのではないか、という懸念から批判を浴びた
のです
。だからこそ、書面ではなく『プロセス』が重視され、
ACPの重要性が強調された
のではなかったのでしょうか。
今度はその話し合いの過程まで否定してしまうのでしょうか。

そうではないと私は思います。ACPは出したり引っ込めたり
する概念ではありません。「延命する、しない」を決める
ことがACPだと思っているなら、それはその方の理解が、
上記の「終末期相談支援料」で止まっているのです

そうではなく絶え間ない対話により、その人がどんな考え
や価値観を持ち、何を希望しているかを引き出していく、
その継続的な関わりこそが、ACPなのです。

理想的なACPにほど遠いことは確かです。医師だけでも
十分なACPを行うことは出来ませんので、ファシリテーター
を中心とした組織的な体制作りが望まれています。
そして、医療者だけでなく国民一人一人もACPの大切さを
理解していかないと、いつまで経っても本当の希望を周囲に
理解してもらうことは困難だと思うのです。

鎮静と安楽死

ここ最近、以前と比べて安楽死の議論がさかんになって来た
ように思います。写真家幡野広志さんのブログやTwitter
影響も少なからずあるのではないかと思います。
緩和ケアには、「鎮静」という治療が以前からありました。
患者さんの苦痛を取り除くために薬を使い、意識を落とす
治療を言います。

この鎮静は、ガイドライン等において安楽死と以下の点で
異なると明記されています。

1.目的が違う…鎮静は患者さんの耐え難い痛みを取るのが目的
2.使用する薬剤が異なる…鎮静で用いられるのは睡眠薬
抗精神病薬・抗痙攣薬であり、患者さんの命を終わらせる
「致死量の毒物」ではない。
3.成功した場合の結果が違う。鎮静のゴールは「患者さんの
死」ではなく、苦痛の緩和である。

この他に、「相応性」として、
1.耐え難い苦痛がある
2.苦痛は主治医単独ではなく医療チームにより治療抵抗性
と判断されている。
3.原疾患のために2~3週以内に死亡が生じると考えられている

ところが、鎮静のガイドライン(最新版は「手引き」)の
執筆者の一人、新城拓也先生が一昨日こんなツイートを
されました。

安楽死と鎮静は違うというその見解は
そろそろ無効になってきてます

これを他ならぬ新城先生が言ってしまったことに
私はかなりショックを覚えました。

新城先生の動揺は、こちらのブログにも書かれています。

www.buzzfeed.com

新城先生は、ブログの中で御自分が正しいと信じて行って来た鎮静が
一般的には安楽死と同一視されていた(いる)のではないかと
述べています。

しかし、私はこの記事を何度読んでも新城先生の動揺の理由が
今一つ分からないのです。今更感・違和感が拭えないのです。

安楽死と鎮静を、「患者の死」という目に見える結果だけ切り取って
同一視する人達は昔からいます。しかし、人間は目に見えない想いや
信念というものを持っており、そこに見を向けることの出来る人は
安楽死と鎮静を同一に考えることはしないでしょう。

そして患者にも医師にも「目に見えない大切なもの」がある限り、
仮に安楽死が日本で合法化されたとしても、安楽死は鎮静の代わり
にはならない、それでも鎮静を選ぶ人はいる
と確信しています。
これは、オランダなど安楽死が行われている国々でも、多くは自然死
や鎮静によって亡くなっているという事実からも分かります。
また、認知症の方、判断力が失われている方では安楽死は受けられ
ませんが、鎮静は御本人が意思表示が出来なくなっても苦痛を緩和
する手段として家族の同意をもって慎重に行われています。

一方で、安楽死を必要としている人がいることも知っています。
鎮静もまた、安楽死の代わりにはなりません。癌以外の疾患には
今のところ鎮静は、少なくともCDSは、提供されることは殆どない
と思います。

安楽死が議論されるようになった今だからこそ、私達が鎮静の概念
をしっかり伝えるべき時だと思います。仮に安楽死と鎮静を同一
に考える声が大きくなってるとしても、緩和ケア医までもが
そこに巻き込まれてしまって良いのでしょうか。

『在宅無限大』

年末年始に読んだ本のひとつでしたが、
なかなか興味深い内容でした。
著者の村上靖彦さんは、基礎精神病理学精神分析学博士
であり現在の大阪大学大学院人間科学研究科教授という方。
複数の訪問看護師さんへのインタビューが行われ、それを
村上さんが分析し、展開します。最初は少々理屈っぽい本
という印象を持ちましたが、読み進めると看護師さんの
無意識に発した言葉を村上さんが巧みに拾い上げていて、
さすが学者さんだなぁと思いました。

サブタイトルに、「訪問看護師がみた生と死」とあるように、
テーマのひとつは在宅での看取りです。普段在宅医をしている
私にとってはありふれた光景でもあるのですが、村上さんという
レンズを通して届く言葉は新鮮に感じました。

まずとても共感したのは冒頭の、一旦失われた自宅での看取り
に対する、「良い死に方」を「再発明」しつつある、という表現。
確かに介護保険成立後の自宅での看取りは、多くの医療者・介護者
が介入するという点で、過去の自宅での自然死とは性質が異なる
ように思います。村上さんはこれを「新たな在宅」と呼びます。
そして病院との対比の中で、患者さんと家族は失われていた
「普通」を取り戻す。訪問看護師はその触媒のような役割を
果たしていると言います。

その後は更に具体的に「快」、「願い」、「運命」と章を分け、
患者家族の心理と訪問看護師の役割を整理していきます。
これら全てを患者さんに合わせたオーダーメイドで作り上げて
いく。そこが病院の管理下では決して成し得ない、在宅の「無限大」
なのです。

快を作り出す。
希望を聞き出し家族と繋ぐ。
運命を受け入れる手助けをする。

各章を深く掘り下げて紹介しようとすると「ネタばれ」になって
しまいますので避けますが、なかなか深い。
私が行っている訪問診療でも、これらは間違いなく大事な点です。
しかしより積極的に力強く関われるのは看護師さんではないかと
私は思っています。

中にいる医療者でないからこそ描ける在宅医療。携わる全ての
方に、また訪問看護を受ける患者さんやご家族にも気付きの
ある内容ではないかと思います。