Not doing but being

東京都大田区で開業している訪問診療医のブログ。主に緩和ケア、認知症、訪問診療、介護、看取り分野の話題です

「鎮静」という手段を知って下さい

5年余り訪問診療を行って来て、先日初めて在宅でドルミカム
を使った持続的な深い鎮静を行いました。対象は若い患者さん
で、身の置き所のなさとせん妄があり、家族も眠れず心を
傷めている状況でした。「眠っても良いから楽にして欲しい」
と御本人もおっしゃり、せん妄に踏み切り、ご自宅で安らか
な最期を迎えられました。

日本の緩和ケアの歴史のはじまりをどこと考えるのかは異論が
あるかもしれませんが、少なく見積もって聖隷三方原病院の
独立型ホスピス開設としても既に我が国には35年以上の緩和
ケアの歴史があることになります。しかし、未だに緩和ケアが
何かということは、下手をすると医療者すらその本質を理解
していない部分があります。なかでも、この「鎮静」という
緩和医療については、実施出来る医療者も少なく、多くの
患者さんは希望しようにもその選択肢すら知らないということ
が多いように思います。

鎮静(セデーション)は、一般的な鎮静に対して「終末期
鎮静」とも言われますが、終末期の耐え難い苦痛に対して
薬剤により意図的に意識レベルを落とし、その状態を維持
することを示します。
鎮静には、「夜だけ」など決まった
時間のみ鎮静を行う「間欠的な鎮静」、「呼べば目覚めて
話が出来る」くらいの「浅い鎮静」、深い眠りを意図する
「持続的な深い鎮静(CDS)」という分類があります。
CDSを選択するにはガイドラインがあり、推定される命の
長さが2~3週間未満であること等条件が設けられています。

問題になるのはCDSで、うまくいけば患者さんの苦痛をほぼ
完全になくすことが出来る一方でQOLを完全に奪ってしまう
治療法
であり、緩和ケアとしてはある意味敗北であるばかり
か、医療者の中にも「安楽死」「自殺幇助」との区別が自身
の中でついていない方も多く、責任を問われるのでは…との
漠然とした恐れも加わり躊躇う場合が多い
のが実情です。

CDSをしなくても済むような医療・ケアをする」のが
本来の緩和ケアなので、CDSの割合が少ないことは良い
緩和ケアを提供していることのひとつの指標になっています。

ただ、問題は「うちはCDSが0%です」等と鎮静を減らすこと
自体が目的となってしまうと、患者さんが強い苦痛を感じて
いても適切なタイミングで鎮静が選択されない場合があります

既にそのあちこちでその兆候があり、このブログでも何度か
取り上げています。

ちなみに、欧米を含め一般的なホスピスの終末期鎮静の割合
は30%程度、という数字があります。

CDSを減らす最も確実な方法があり、それはCDSをしないこと
です。なんだか「頓智」のような言い方になってしまいますが、
何のことはない、鎮静が出来ない医療者でも0%なのです

大切なことは、患者さんが元気なうちから鎮静(セデーション)
という治療があることを知ること。そして医療者は鎮静の方法
を完璧に熟知すること。その上で患者さんが鎮静を希望せず、
医療者もその必要がないと思えて初めて、その緩和ケアは
評価され、CDS0%に意味があるのだと私は思います。


私が末期がんで死の床におり、強い苦痛がある時に、鎮静という
手段がいつでも使えるという安心感があれば、どんなに心強い
かと思います。ぎりぎりまで頑張ろう、最後には苦痛をとって
もらえるから…と思えるからです。医療者は是非、自分の感覚
だけではなく患者さんの希望にも耳を傾けて欲しい。しかし、
そのためには患者さんも鎮静という治療を知る必要があります

CDSは慎重に。しかし、患者さんが必要を感じているなら大胆に。
これが私の信条です。

「美しい心」と言ってくれた

Twitterでお世話になっている、海月要さんの書いた小説です。
表題作の『「美しい心」と言ってくれた~地下にある死者の施設』
のほか、4作品が納められた短編集になっています。海月さんは
老人施設の看護師をされていますが、その日常の体験をもとに
描かれた優しい作品集になっています。

まず、目を引くのは、表紙です。最後のページを見ると
タイトルは「巻貝」、これは昔海月さんが昔書かれた絵なのだそうです。
表情や座り方から、寂しさ、悲しさ、何か「ぎりぎり」
なものを感じます。ページをめくると同じタイトルの
詩があります。成長により、自分自身に「貫かれる」と
いう表現、「けして 止められない」という言葉からも
追い詰められた状況を想像してしまいます。

あとがきに、海月さんはずっと自殺を考えていたと書いて
ありました。しかし、「生き残りました」とあります。
そして、その海月さんが「自死を選ばないで欲しい。
あなたを必要としている人が、待っています。美しい心を
大切にして欲しい」と言います。振り返ると作品を通して
この強いメッセージが伝わって来るのが分かります。

以下、作品を語るとどうしても「ネタばれ」になって
しまいます。海月さんの作品は「ネタばれ」があって
価値が減るような作品ではないのですが、なるべく
核心に触れずに、さらっと紹介したいと思います。

【「美しい心」と言ってくれた~地下にある死者の施設】
この作品に限らず、物語の背景は近未来のような、SF的
な不思議なものになっています。死んでしまったはずの
主人公がやって来た「下」と呼ばれる世界の正体と、
海月さんがどのような世界として描いているかは物語を
読み進み、あとがきを読むと分かるようになっています。
「下」でも、施設の入居者は次第に老い、物忘れも進み、
やがて死んでしまいます。しかし、決定的に違うところが
あります。そしてそこで、主人公が生きる意味や力を
取り戻す様子、思いがけないある人との再会…。
海月さんのメッセージが一番強く現れた作品です。

【「死なせてくれ」~ポジティブ機能OFF】
認知症が進み、物事を考え、決定し伝えることが出来ない
患者さんに代わり、AIが代わりに考え意思を伝えることが
出来たら…という短編小説です。主人公の気持ちの移り
変わりや家族の揺れる気持ちを想像し上手に書かれています。
この作品のミソは「ポジティブ機能」です。
「利用して良かったと家族が感じて頂けるよう…」
という説明の意味が、後半で分かって来ることに
なります。そして三年間でポジティブ機能が切れ…。

桃源郷に居ます】
個人的に一番好きな作品。老いた時に周囲は安全・安心
を望みますし、それが一番大切、と考える高齢者もいると
思います。しかし、「もう一度ヒーローになる場所」
ってワクワクします。それが桃源郷なのですね。
続きも気になる小説でした。

小さな恋のメロディ
施設で言葉を失い、何も表現が出来なくなった利用者
さんを介護していて思ったことを元に作られた作品
なのだそうです。入居者である高齢の女性の目線で
書かれており、思考や感情を受け止めることが出来る?
ちょっと不思議な男性職員への想いが描かれています。

【誰か、作って下さい~夢の薬~】
これも好きな作品です。きっと似たような会話は
施設の何処ででも聞こえてきそうな。それをにっこり
笑って(あるいは爆笑して)聞いている海月さんの姿
も想像出来そうです。

どれも頭の中で一枚の絵のような情景が浮かぶ作品に
なっていました。誰でもきっと居場所がある…ただ、
死ぬまでの時間を長くするよりも生きる意味や価値を
見出せる世界ある。そんな海月さんの願いを感じます。

医療者が死にゆく時

長年大病院で勤務したある看護師さんが退職後
に末期がんを告げられ、いよいよ病状が悪く
なった時、自分とはふた回りくらい違う歳の
看護師の前で涙をみせられたそうです。

「自分が思い描いていた最期とは違った、
こんなに辛いものだとは思わなかった」

この女性は弱音を吐かない人だったようです。
きっとプライドもあり、ひとりで病気と
向き合って来たのではないかと思います。
痛みには、オピオイドが効きました。吐き気や
不眠も、薬でかなり改善することが出来ました。
しかし、トイレに行くことがこれだけ苦しい
ものだったとは…その苦しさは薬ではあまり
楽になりませんでした。頑張って通ったトイレ
がひとりで行けなくなり、オムツを当て…。
その失望感や悔しさには薬は効きません。
私達が「スピリチュアルペイン」等と呼ぶ、
測りしれない喪失感は思ったよりもずっと
重く、彼女を打ちのめしたのだと思いました。
こんな時、医療は無力です。動いた後の息苦しさ
が早く良くなるように、酸素を使いましょう
とか、抗うつ剤を処方しましょう、ステロイド
を試してみましょう…虚しく聞こえます。

訪問看護師さんは、彼女と一緒に泣いたそうです。
きっと、この看護師さんがしたことが
私達が出来る最高のことではなかっただろうか
と私は思います。
結局最後は患者さんと向き合い、一緒に泣いたり
悩んだり祈ったり…一緒に時を過ごすことしか
私達には出来ないのです。

そしてまた、この看護師さんだからこそ、彼女は
心を開き、辛いよ、苦しいよ、と言えたのだと
思いました。

このブログでも何度も取り上げた訪問診療医
の大先輩である早川一光先生も、御自身が病に
倒れられた時に「こんなはずではなかった」
おっしゃいました。たくさんの患者さんを看取り、
良く理解していたはずの人間の最期ですが、
看取る側と看取られる側の世界の違いは、
早川先生ですら想像もつかず
大いに狼狽させるものでした。

もちろん、だからと言ってこの看護師であった
患者さんや早川先生がやってきたことは無意味
ではありません。現役の医療者は誰も終末期を
経験したことはないのです。

私もまた看取られる側になり現実に打ちのめされる
日が来るでしょう。こんなに辛かったのか、惨め
だったのか、孤独だったのか。その時にまだ死を
知らない、健康な次世代を担う医師や看護師に
きっと支えられることになるでしょう。
そんな時はきっとそれらしい立派な言葉を聞きたい
のではなく、逃げずに誠実に向き合ってくれることを、
きっとそれだけで十分ではないかと思うのです。