Not doing but being

東京都大田区で開業している訪問診療医のブログ。主に緩和ケア、認知症、訪問診療、介護、看取り分野の話題です

お医者様と患者様

こんな記事を読んでの感想です。

http://medical.nikkeibp.co.jp/inc/mem/pub/di/column/kumagai/201807/556919.html

登録していないと読めない記事かもしれません。
主治医を「お医者様」と呼び、薬を減らして欲しいと思いながら
言い出せない80代の男性の患者さんが登場します。

「自分は薬のことはよく分からないが、こんなに飲まなくてもいいのではないか
と思っている。とりわけ、半年ほど前に痰が絡むと言った時に出されたこの
大きい薬はもう飲まなくてもいいのではないか。先生からは、なかなか減らそう
と言ってもらえない」

私はかつて、患者さんのことを「患者様」と呼んでいました。
医師に成りたての頃、ちょうど病院の接遇がどうのこうの
言われていた時代で、特に考えもせず「患者様」の方が丁寧で
気持ちがこもっているような気がしていました。
正直それ以外のことを考えるので必死だったので、あまり
深く考えていなかったと思います。

それがある時、「あなたはお医者様と呼ばれて嬉しい?」と
いう主旨のことを言われて、「なんか慇懃な感じで、嫌だな」と
思いました。今では、医師-患者の関係はフラットが理想だと
思っており、どちらかが「上」を意識するのは不健全という気持ち
から「患者様」は使っていません。呼び捨ても抵抗があるので
「さん」を付けて呼びます。

こんな本があります。

「患者様」が医療を壊す (新潮選書)

「患者様」が医療を壊す (新潮選書)

いつも一見、挑戦的なタイトルをつける先生ですが、内容は慎重で
常識的、説得力があると思います。岩田先生はいつも、いかにして
質の高い医療を引き出すか、というコツのようなものを、医師の立場
から伝えておられます。何気なく受けている医療が、全て医師任せに
せず少し知識を増やしたり意識を持つととても良い内容に変わります

そしてそれは医師・患者双方にとってプラスになり、より良い結果を
生むはずです。ひとつの例を挙げれば、風邪への抗生剤処方であったり
殆ど無駄な画像検査であったりするでしょう。

冒頭の患者さんにも戻ります。この男性は最後にこう言います。

「今回はお薬をもらっていきます。お医者様の言うことは絶対ですから」

残念ですが、この考えは最大の結果を生みにくい考え方です。
患者さんは、もう痰が出ていないのにムコダインの処方を受け、
飲むのか捨てるのか、ということを繰り返していくのでしょう。
「お医者様」という言い方が悪いわけではありませんが、呼び方
がこのような残念な関係を象徴しているのだと思いました。

患者さんは、「お客様」とは違います。「お客様」はメニュー
やカタログを見て、欲しいものを欲しいだけ購入します。
医療はたしかに現金を支払いますが、大部分の診察料は公費
です。また患者さんの希望でも医療的に有害な治療は出来ません
ので、検査や治療の判断は医師に任されています。
医師は公平に、最小限のリスクで最大の結果を得るために
専門的な知識を活かします。とはいえ、全てを医師に任せ、
言うことを聞かなければいけないというものでは決してありません。
医者は病とより良く向き合い、生活の質をあげるためのパートナー
であることが、理想の関係だと思っています。

逆に「患者様と呼べ!」という態度も、医師が持つ力を10とすると
恐らく3とか4くらいしか引き出せないと思われ、成果を享受しにくい
考え方であると思います。

岩田先生の考えは、私は全面的に賛成で得られるものが大きいと
思います。一読の価値はあります。興味がある方は下の本もかなり
お勧めですが、タイトルに「絶対に、」がついていないものは
近〇 誠先生の著書で全然内容が違いますので注意して下さい。

絶対に、医者に殺されない47の心得

絶対に、医者に殺されない47の心得

「異常者」と殺意を生む職場

大口病院の事件は衝撃的な内容でした。
「信じられない」「許せない」という多くの声の中で、
一部の医療者・介護者はTwitter等で高齢者医療・延命治療
のあり方、医療・介護者の置かれている過酷な環境などを
発信していました。しかし、これに対しては、「異常な
殺人事件を高齢者医療とごちゃごちゃに論じるな」という、
不快感を伴う反応が多かったです。

私も、事件に絡めて高齢者医療(特に延命)を論じること、
半ば崩壊しつつある介護の実情を発信したことはあまり良い
方法ではなかったと思います。しかし一方で、普段から
多くの悩み、痛みを抱えながら仕事を続けているであろう
介護職の方々が、「何か言わずにはいられなかった」という
気持ちも分かりました。「事件と絡めるな」と言うが、普段
でも世間は声を聴いてくれない、というような意見もありました。

大口病院の事件で思い出されるのは、川崎の施設で起こった
『川崎老人ホーム連続殺人事件(2014)』、福祉施設
起こった『相模原障害者施設殺傷事件(2016)』でした。
どうも、国も世間もこのような事件は狂った異常者の特殊
な事件として片付けたい気持ちがあるように思います。しかし、
実際はもっと根の深いものかもしれません。
高齢者医療・介護に携わり、普段から多くの疑問や問題を
抱えている人達からすれば、風化させてはいけない、という
気持ちがあるのではないでしょうか。

実際、殺人や虐待を犯してしまうのは確かに異常者…なのかも
しれませんが、介護業界に、殺意や敵意を芽生えさせて
しまう土壌がないと言い切れるでしょうか。皆さんに
どうしても読んで頂きたい記事があります。

www.yomiuri.co.jp

もちろん、全てを環境のせいにするつもりはありません。
過酷なのは介護業界だけではないだろう…という意見もあると
思います。それもそうですが、私は今の介護業界はかなり
特殊な環境にあると思います。高齢者の『日常と命』を守る
という非常に重大な責任を負わされながら世間の理解が殆どなく、
頑張るだけ目に見える成果・達成感も得られにくいです。

介護殺人。私は基本的に、ヒトは誰でも本当に追い詰められたら
何をするか分からない部分があると思っています。自分は絶対
狂気に走らないと、どうして思えるのか。

これは私の昨日のツイートです。
私は、もちろん全てとは言いませんが、こうした事件の中で
防げたものもあったのではないかという考えです。介護者が
孤立せず、適切な境遇や支援を受けられることで、入居者も
間接的に恩恵を被ることが出来ると思っています。

私たちの家族や私たち自身がいつかはお世話になる介護・医療。
少しでも良いものになるように、まずは理解するところから
始めませんか?

介護における「ボディタッチ」の是非

昨日Twitterで、「介護におけるボディタッチは風俗法に
抵触するのではないか」という意見をお聞きしました。
個人的には結構ショックで、「ついにこういう時代が
来たか…」と思いました。この指摘は、看取り前の
がん末期の患者さんに対して、看護師が手を握ったこと
が、施設から「不適切な行為」とクレームを受けた
エピソードがあり、それに対する意見でした。

長い間何も問題視されず普通に行われて来たことが、
「実はこれ、〇〇法に抵触するのではないですか?」
という問題提起が起こる。これは良い場合と悪い場合
があります。この件も「拡大解釈では…」と思いつつも
私は風俗法を知りませんし、ただきっとそんな解釈を
する人は良くも悪くもこれから増えていくのだろうな、
と漠然と思いました。

もし介護において「患者の手を握る行為」が法に触れる
とすれば、『ユマニチュード』はその根本から崩れて
しまうでしょう(ユマニチュードはフランスで生まれた、
介護のスキル・哲学が体系化されたものです。多くは
日本の介護士が無意識に行ってきたことだと思いますが
私には学ぶところが多く非常に有益でした)。ユマニ
チュードでは、「見る」「話す」「立つ」と共に、
「触れる」ことを最も重要なスキルに位置付けている
からです。

また、私の尊敬する看取り士の柴田久美子さんを
思い出しました。柴田さんも著書『看取り士』の中で
患者さんの手を握り、さすり、「抱きしめて」見送っていました。

こうした例を出すまでもなく、認知症の高齢者や死を
意識した患者さんの一部は非常に強い不安や孤独を
感じています。こうした患者さんに対して「触れる」
という行為が時に抗不安薬以上の安心を与えたり、
大袈裟ではなくモルヒネ以上の鎮痛効果を与えること
すらあるのです。

ただ、その「立ち止まって手を握る」あるいは「話を聞く」
ような行為が、施設の他の職員にも求められたら…という
意見が施設側から出ることは想像出来ます。冒頭の意見を
下さったかたも、それが言いたかったようです。確かに私が
例に出したような介護法は時間や精神的な余裕がなければ
出来ないことであり、一律に全員に求めようとすれば
うまくいかないのは目に見えています。ただでさえ介護士
は人数が足りず、また高齢者からセクハラや暴力の被害を
受けている方も多く、必要以上に触れる介護に抵抗を覚える
人も多いからです。

私の考えではまず、「法」を持ち出し終末期の患者さんの
受けるケアの選択肢を狭めないで頂きたいと願います。
法で封じるのではなくまず違う方向での解決策を模索すべき
だと考えます。

また、実際に介護をする方々の事情や立場を考えずに
「あの人はマッサージしてくれた」「介護はこうすべきだ」
を押し付けようとするならば必ずその試みはうまくいかない
と思います。それこそ、法の力で介護を変える試みが出て
くるのではないかと思います。それぞれが持っている知識・
技術・考え方に応じて出来ることを分担することが大切で、
それが出来ないならば、施設は無理に緩和ケアや看取りに
手を出すべきではないです。みんなが不幸になります。

「ユマニチュード」という革命: なぜ、このケアで認知症高齢者と心が通うのか

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幸せな旅立ちを約束します 看取り士

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