Not doing but being

東京都大田区で開業している訪問診療医のブログ。主に緩和ケア、認知症、訪問診療、介護、看取り分野の話題です

命の重み

私がレジデントの頃の話です。
病院かかりつけの患者さんが窒息で救急救命センターに
搬送されました。一命を取りとめましたが食事も会話も
出来ず、胃瘻に。また、もともと透析をするかどうか
ギリギリの方でしたが、救命後は透析も必要となりました。
経過中、下肢の末端の壊死も始まりました。外科的治療の
適応はないと判断されました。患者さんは言葉が出ませんが
壊死した趾の処置はとても辛そうでした。

私は当初から緩和ケア医を目指していましたので、この
患者さんが行われている治療はそれとは逆の、延命治療
であるという気がしてなりませんでした。そしてことも
あろうに看護師さん達と一緒になり上級医の判断に
対して愚痴などこぼしていました。今思うと恥ずかしい
限りです。

その後時が経ちいざ自分が上級医の立場になって初めて
その想像以上の難しさ・決断の重みを思い知ることになります。
胃瘻や透析について、話してリスクとベネフィットを理解
出来る家族ばかりではありません。強く治療を希望される
家族も当然いますし、「お任せします」と言われてしまうと
「では、この患者さんは気の毒なのでお看取りにしましょう」
とは、とても言えません。そして一旦治療が始まると、その
中止はますます難しくなります。

昨日の『DNAR』の話もそうですが、Twitter上で患者さん
の生き死にに関わる決断を、家族にさせるべきではない

という意見を見ました。そもそも老衰の患者さんに対して
胃瘻の選択肢を出して決めさせることがいけない、出す
べきではない、というような意見でした。もちろん家族の
心理的負担に配慮した発言であり、選択の責任を放棄する
医師の態度に対する非難でした。

一見尤もらしいのですが、私はこの意見には反対です。
理由は昨日、今日のブログに散々書きましたが、
「人の生き死には他人が決定する問題ではない」
と考えるからです。医療者が胃瘻に反対であっても、家族は
家族の心情や考えがありますし、全て理解されたうえで
胃瘻を選択されるのであればそれはその選択を尊重すべきです。
そもそも胃瘻の選択肢を出さなかったことで、後でその
家族の苦しみが本当に軽減するのかも良く考える必要があります。

もちろん逆に、医師が選択肢だけ提示して迷う家族に
何もしなくて良いとは思いません。この大きな決断を
時には一人の家族のみで決定し、「これで良かったの
だろうか」と苦しむことに対しては支えが必要だと
思います。

医師としての仕事は患者さんの命の選別という
十字架を自ら負うことではなく、知識と経験をもって決断
をサポートし、具体的な困難に対するアドバイス
含め苦悩する家族を支え続ける、あるいは責任を持って次の
医療機関や在宅医にバトンを渡すことではないでしょうか。

入院時に受ける急変の説明

病院に入院すると、家族が病状の説明を受けた時に、
「急変時の方針」を決めるよう求められる場合があります。
もちろん、この場で答えたことが今後も変更不可能ということ
ではありません。後に変更も可能です。しかし後述のように
いざ起こってしまってから「どうしよう」と考える時間は
恐らくありません。これを私たちは「DNARを確認する」等と
言います。DNARは「蘇生の可能性が低い場合に蘇生を差し
控えること」です。

入院中に具合が悪くなった場合、もちろん治療を
何もしません、ということではありません。
ただ、「心臓マッサージ」「挿管・人工呼吸器」
による治療は他の治療とは一線を引いて考える必要がある
と多くの医療者は考えています。再び息を吹き返したと
しても、望んだ状態であることは少なく、低酸素脳症
よる障害が残り、会話も食事も意思表示も出来なくなる
といった方が多いのです。特に一度開始した人工呼吸器
による治療を途中で中止することは殺人として扱われる
可能性があり、回復の見込みもないまま治療が続いていく
ことが往々にしてあります。医療者はそれを知っているので
尋ねるのです。「本当にそこまで治療しますか?」と。

知っておいて頂きたいのは、この質問をされたところで
本当に患者さんの容態がとても悪いとは限らない、と
いうことです。一見落ち着いている患者さんでも、
入院中に容態が変化することは疾患によっては十分考え
られますし、特にご高齢の方では稀なこととも言えません。
ですので、おそらく過去のご経験などから、入院の時に
ほぼ全員にルーチンに説明をするドクターもいるからです。
ですので、話が出たら「そんなに悪いのですか?」と率直
に聞いてみることをお勧めします。

「悪くなった時の話をする」ことが嫌な方が多いことは
知っています。もちろん、話す方も好きでしているわけでは
ありません。しかし、これを縁起でもないと省いてしまった
場合、結果的に苦しいだけの延命を避けることが出来ず、
蘇生を希望する場合も、躊躇わずすぐに治療を開始出来ないと
良い結果が得られにくくなることを考えれば事前確認の必要性も
理解出来るのではないでしょうか。

もちろん、考えたくなければ「考えられません、お任せ
します」と答えれば良いことです。しかし、本当にそれで
良いのですか?「私は特に高齢者が入院をする」という
ことは、それなりの覚悟が必要なことだと思っています。
親の老いをみつめ、有限の時間を想い感謝する時が
私たちの生活にはとても少ないと思います。ここで感謝と
決心が出来ないと私たちは無理な延命を親に強いることに
なるのではないかと私は考えています。

同居孤独死

Yahooニュースにこんな記事がありました。

headlines.yahoo.co.jp

家族と同居をしているのに孤立状態で異常死を遂げる
ケースがあると記事は述べています。別の記事によると、
このような「同居孤独死」は都内で年間2000件ある
そうです。ちなみに一人暮らしの孤独死が年間3000件
余りだそうです。

もちろん、最初から孤独死させようと同居する家族は
いません。初めは良かれと思い、独居の親と一緒に住む
決心をされたのだと思います。にもかかわらずこのような
事態になってしまうことに、老いた親との同居の難しさ
を痛感します。

最近つくづく思うことは親、特に認知症の親との同居、
介護は本当に大変だということです。家族だからこそ
の衝突が必ずあります。認知症の親の介護をしていた
方であればお分かりのように、何故か老いた親は嫌な
ことばかり覚えており
、時には間違った記憶で子供を
責めます
。我慢が出来ずにすぐ怒ります。味覚が衰えて
いるので一生懸命食事を作っても「まずい」と言います。
ただでさえ大変な介護が、BPSDなどを伴うとやがて
介護者は追い詰められていくことになります。
「これだけ犠牲を払い、同居しているのに!」という
気持ちが出てきても当然ではないかと思います。
すると、同居していても顔を合わせたり親のところを
訪ねる回数は少なくなると想像出来ます。

「同居孤独死」では親子の関係がもっと劣悪になった果てに
起こるものも少なくないようです。紹介した記事でも遺品や
写真をを全て捨てて欲しい、とか葬儀も一切しない、
お金は出すから(葬儀は)勝手にやってくれ、という家族は
少なくないと書かれてありました。親ではなく、介護者である
息子・娘に問題はあることもあるでしょう。しかし、そのような
冷酷な人間が親と同居し介護をしようとするでしょうか

一人暮らしは寂しいだろう…確かにそれはそうです。しかし、
物理的には傍に家族がいても実際には家族との関係が冷え、
より一層孤独になっている人もある
。記事にもあるように、
『老後は家族と一緒が幸せという概念を考えなおす時が
来ている』のかもしれません。「一緒に住めなくて申し訳
ないなぁ」という気持ちで、笑顔で時々会いに来てくれる
くらいが、もしかしたら親は幸せかもしれません。少なくとも
私の老後は、それを望みます。