Not doing but being

東京都大田区で開業している訪問診療医のブログ。主に緩和ケア、認知症、訪問診療、介護、看取り分野の話題です

『母親に、死んで欲しい』

将来介護をする、受ける人になる可能性は、とても高いと
思います。特に家族に介護する/される人にとって、是非
一度は読み、考えて頂きたい本だと思います。

「母親に、死んで欲しい」: 介護殺人・当事者たちの告白

「母親に、死んで欲しい」: 介護殺人・当事者たちの告白

副題に「介護殺人・当事者たちの告白」とあります。
時にニュースとなり、私達の目に入る、「介護殺人」。
新聞やインターネットのニュースには決して出て来ない、
殺人に至るまでの介護者の苦悩が赤裸々に描かれています。
「あとがき」にもあるように、どのような理由があっても
殺人など許される訳がありません。当事者だけの訴えを
聞き、介護殺人を美化するような嫌悪感を感じる人もいる
かもしれません。しかし、現実問題として時に殺意や
暴力をふるってしまう多くの方は身勝手で凶悪な犯罪者
ではありません。そんな人が、多くの犠牲を払って介護を
するでしょうか。
私はこの本をAmazon kindleで読みました
が、共感・考えさせられる箇所にマーカーを引いたところ、
あちこちがマーカーだらけになりました。介護の負担は、
差し迫った社会の問題として、そして未来に降りかかるで
あろう自分自身の問題としてみんなが考えなければいけない
問題だと私は強く思っています。

認知症高齢者の介護を考えると、「御本人を第一に」という
言葉をよく聞きます。「パーソン・センタード・ケア」、重要
なのは言うまでもありません。しかし、介護者が常に疲弊し、
苛立ちや抑うつ、仕事や家族も失い、収入も殆どないとしたら、
その傍で認知症高齢者だけが幸せに過ごしていることを
想像出来るでしょうか。家族を、介護者を支えるという視点
なしに、認知症高齢者の安定や幸せは有り得ないのです。

本著でも繰り返し述べられているように、介護は子育てや仕事
と異なり、どんなに努力しても目標達成やゴールはなく、
次第に認知症は進行し相手は衰弱していきます。相手から感謝
されないことも多く、逆に暴言や罵声を浴びせられることすら
あります。周囲でも介護の経験者がいなければ理解を得にくく、
結果として仕事を諦めなければいけない、そういう方が本著でも
多く出て来ました。当然、収入面でも貯金を崩したり、寝る時間
を削って働く。そして子育ての時期と大きく異なることは、介護者
老い、健康を損ねることが多い
こと。病院にも行けない
人が少なくないようです。介護者が徐々に追い詰められていくのは、
むしろ当然のことのようにも思えます。そして家族が介護に入ると、
どうしても愛憎や恥・プライド、責任感のようなものに介護者が
縛られていく傾向があるようです。
このような本を読むことは、
陥りやすい失敗を客観的な知識として持つことが出来るので、
その意味でも有用だと思います。

そして社会が、地域が何を出来るか。栗山町の取り組みについて
書かれた第6章は、そのヒントになると思います。家族など、
無償で介護する介護者を「ケアラー」と呼び、介護をする人を
ちゃんと見ていこう。それが介護を受ける人のケアを更に高める
ことにもつながる、
という考えです。細かい部分は割愛しますが、
SOSが出せない介護者をあぶり出す、アウトリーチの考え方
はとても大切だと思いました。相談先を伝えたり、ケアラーの集う
場所を作ったり、関わりの中で積極的に「介護うつ」のスクリー
ニングを行う、など。国としても、介護離職や結婚を諦めて
しまう介護者に対する支援や、相談所、カウンセリングを受ける
機会を増やす、御本人だけでなく介護者にも金銭を支給するなど
出来ることはたくさんあるようにも思います。

全ては、国民ひとりひとりが自分を含めた全員の問題として、
介護を理解することが大切だと思うのです。

「一番苦しいのは本人」ですか?

がんの末期に限ったことではありませんが、介護している家族
に向かって「あなたも大変だと思うけれど、御本人の方が辛いの
ですよ」等と声がかかることがあります。これは間違っていると
思います。もちろん、痛みや呼吸苦、嘔気などの身体的な苦痛を
感じているのは御本人です。しかし、家族は家族で別の種類の
苦しみがあり、他人が簡単に比較出来るものではないからです。
実際、ホスピス等で身内を看取った経験のある終末期の患者さんは
その時のことを振り返り、「私は看取る側の方がずっと大変
だった」等と表現される方が、特に女性はめずらしくありません。

家族は家族で、通院や何度もトイレにいく患者さんの介助、
せん妄・混乱した患者さんへの身体介助、不眠などの身体的な
負担はもちろん、御本人の苛立ちを受け止め(時には言い返して
しまい自己嫌悪になったり)、時には逃げ出したいほどの不安や
責任感に耐え、そして愛する家族を失う喪失感にも対峙しなければ
いけないのです。また、周囲の無理解にも苦しめられます。家族間
でも、特に介護をしない家族ほど、介護している家族を責める傾向
にあります。弱音を吐けず、孤独の中で苦しんでいる家族も多い
のです。少しでもそれが想像出来れば、たとえ励ましているつもり
でも「本人の方が辛い」等という言葉は掛けられないと私は
思います。

緩和ケアでは、家族も「第二の患者」であるという理解のもと、
家族向けの心のケアやカウンセリング等のプログラムを持って
いる場合があります。そこまで本格的でなくても、困っている
ことはないですか、と尋ね傾聴するだけでも支えられるのでは
ないかと思います。訪問診療や精神科領域でも以前から、家族
の負担への配慮は行われて来たと思います。時には御家族の負担
を減らすための処方を考えたり、長く傾聴の時間をとったり、
「レスパイト」といった考えもその一つの例です。ただ、まだまだ
不十分だと思います。

私の持論として、御本人を本当の意味で支えるには家族ケアは
必須です。介護者と患者が「家族」という集合体なので、患者
へのケアだけで緩和ケアが成功する方が不思議なのです。
きっと家族もまた、「否認」「怒り」「抑うつ」等の心理状態
を経験し、また「トータルペイン」とも言うべき様々な苦痛を
経験している
。ただ正直今の医療体制では、特に一般病棟の医療者
には「分かっちゃいるけど時間がない」のだと思います。
それであればひとまず頭のすみに留めて頂いたうえで、
積極的に緩和ケアチームや訪問医・訪問看護師を信頼し、
もっと「投げて」頂きたいと思っています。

「死の受容」に対する疑問(2)

昨日の続きになります。

kotaro-kanwa.hateblo.jp

昨日のブログでは、西先生のブログ記事、「患者さんは死を
受け入れられるのかどうか」を紹介させて頂きました。
そして我が国のホスピスがキュブラー・ロスの影響を強く
受け、まるで「死の受容」に至ることを「支援」することが
ホスピスのひとつの目的であるかのように認識されていたこと
をお話しました。

実は私も初めはそのように考えていました。確かに怒りや抑うつ
の中で最期を迎えるよりは、平安と感謝のうちに最期を迎える
方が幸福であるように思います。人間の苦しみが「欲望」「執着」
にあるとする仏教的な思想
とも一致するので、日本人には受け入れ
やすい考えなのかもしれません。

しかし臨床を続けていると「本当に全員が死の受容は出来るのか」
「受容を目指さなければいけないのか」「患者さんは本当にそれを
望んでいるのだろうか」、また、他人の「受容したかどうか」の
判断なんて意味があるのか、限られた時間の関わりで私達に
「受容に至る手伝い」が出来ると思うこと自体、おこがましくは
ないのだろうか
、等と色々な疑問が沸いて来ます。
昨日紹介した西先生のブログでも登場したような、

「先生、患者さんが受容出来ていないようなので、病状を
もう一度説明した方が良いのではないですか?」

というスタッフの言葉にも、西先生同様に私もそれをすること
が正しいことなのだろうか、と葛藤がありました。

医療者が死生観や目標・理想を持つだけであれば良いのですが
患者さんが「受容」しようとしまいと、あるいはどんなペースで
どのように歩もうとそれは患者さんの自由のはずです。

『病院で死ぬということ』の著書で有名な山崎章郎先生も、
以前日本ホスピス緩和ケア協会のニューズレターの中でこんな
ことをおっしゃっており、とても共感しました。

その頃は、今ほどスピリチュアルペインやそのケアの重要性が
行きわたっていなかった頃で、避けられぬ死をいかに受け止めて
いただくか、が課題のひとつでもあった
からです。しかし、
ホスピス緩和ケアの経験が積み重ねられるほどに、ケアを提供
する側が使用してきた「死」の受容という言葉は、実は、
そのような場面でのケアの展開があまり見えなかった頃の、
ケアを提供する側の未熟さ、あるいは「あなた死ぬ人、私
残る人」という提供者側の奢りから生じた言葉だったのでは
ないか
、と今、思っています。

※赤字は私が勝手に赤字にしています。

医療者にはもう治療手段がない段階で患者さんが病気と闘い続けよう
とすることは、医療者にとって戸惑い、困難を感じると思います。
また、闘い続けた結果サポート十分に行えず、緩和ケアが後手にまわり、
結果患者さんがより苦しむという経験もたくさん見ています。
しかし、だからと言って患者さんには「死を受容」しなければ
いけない義務はありません。

誰の、何のための受容なのか、医療者にとって都合の良い、
あるいは上から目線の「受容の強要」になっていないかどうか
は、
私達は常に自省する必要があるように思います。