Not doing but being

東京都大田区で開業している訪問診療医のブログ。主に緩和ケア、認知症、訪問診療、介護、看取り分野の話題です

介護職員への暴力を黙認すべきではない

高齢者や認知症の患者さんは、心身ともに衰えた「弱者」
であり、その人権が侵され易いため、これを守ることが
大切であるとしばしば指摘されます。これはその通りです。

しかし同時に介護・支援する側の家族や介護職員・看護師の
人権を尊重すべきだ、という議論は、当然のことにも関わらず、
まだまだ軽視されていると感じます。

介護のうえで問題にされる「虐待」は、介護者から高齢者
ばかりが問題にされます。しかし実は高齢者から介護者への
暴言・暴力・セクハラ等も日常茶飯事です。

business.nikkeibp.co.jp

日経ビジネスの、3月20日の記事です。
ここに掲載されている引用をそのままお借りしますと、

・介護職の55.9%が身体的・精神的暴力を経験し、施設介護職員では77.9%、訪問介護職員では45.0%
・介護職の42.3%が性的嫌がらせを経験。施設介護職員では44.2%、訪問介護職員では41.4%
(以上は「介護現場にあるケアハラスメント」より)
・訪問看護師の33.3%が身体的暴力を経験
(「在宅ケアにおけるモンスターペイシェントに関する調査」より)
訪問看護師の50.3%が身体的暴力・精神的暴力・性的嫌がらせを経験
(「訪問看護師が利用者・家族から受ける暴力の実態と対策」より

多い、少ないだけの問題ではありませんが、これ程あるのです。

こちらの記事にも、Twitterで頂いた意見でもありましたが、
これら高齢者からの暴力や嫌がらせは、「患者や家族が傷付く」
という理由で長い時間タブー視され、「うまく対応出来ない
家族が、職員が未熟」として取り上げることさえ許されなかった
印象すらあります
。しかし、これで良いのでしょうか。

暴力や痴漢行為ですら、介護側・支援側が我慢すれば良い、という
考えは私はかなり歪で問題だと思います。高齢者・認知症と言って
も色々な方がいます。もちろん、わけがわからなくなって本能的
にそのような行為を働いているのであれば故意ではありませんし
仕方ないとは思います。しかし、「仕方ない」で済ませるのでは
なく、ベテランや男性職員が対応したり、対応可能な施設への
転居を図ったり、BPSDとして治療の対象にする等の対策を考える
べきではないでしょうか。

一方で、確信犯、分かってやっている高齢者もいます。「弱い
介護者」を選んで嫌がらせをしたり、奥さんの前では痴漢を
しない、職員に注意されたら行為をやめた、等は分かって
やっている可能性はないでしょうか。

私は、介護者への暴力を黙認してはいけない理由をこう考えて
います。まず、「やられたらやり返す」行動をとれば高齢者が
虐待の対象になり、事態がエスカレートします。家族への虐待
が続けば、結果的に在宅介護が困難になるでしょう。また、
分からずに痴漢行為をしているのであれば御本人の尊厳が傷
付いたり、家族も「恥」と感じ苦しむことになるでしょう。
高齢者・認知症患者に対する差別や偏見を助長することも
予想されます。貴重な介護職員を退職により失うことにもなる
かもしれません
。長い目で見れば社会問題とも言えないでしょうか。

まずは周囲が「家族だろう」「プロだろう」という変な根性論は
やめるべきです。日本はすぐ気合いで何でも済ませようとします。
家族同士、職員同士が理解し合う、カバーし合うだけでも随分
問題が軽くなることはないでしょうか
。また言って分かる場合は、
上司や医師が介入しても良いかもしれません。また、前頭葉機能
が衰えている場合や薬剤により精神状態に影響を受けていないか
等薬剤を見直したり治療を検討することも大切です。少なくとも
第一歩は、苦しむ家族や介護職員を理解するところから始まる、と
私は思っています。

寄り添うことは悩むこと

2017年3月14日に開始したこのブログですが、明日で
1年を迎えることになります。敢えて有料のブログを選んだ
ことで、「書かないともったいない」ような気分になり、
結果として私にしては頻繁に記事を更新出来たのではないか
と思います(笑)。ブログを書くことは自分の心の中にある
おぼろげなものを明確にし、考えを整理すると共に後に、
日記のような役割もあり自分自身にとってとても大切なこと
だと思っています。

さて、このブログのテーマは、Being。そこにいること、ですが
緩和ケア領域では「共にいる、寄り添う」という意味で用い
られています。私にとっては緩和ケアを越えて医療の本質として
大切にしたい言葉です。

本日のタイトル、『寄り添うことは悩むこと』は実は2010年、
今から8年前に当時在宅医療を始めたばかりの私が書いた
ブログ記事のタイトルです。

blog.goo.ne.jp

週末なんとなく読んでいたのですが、うん、良いことを書いて
いる(笑)。いくつか抜粋してみると、

EBM(Evidence Based Medicine)を超えたところから、
緩和医療が始まる、と私は思っています。

「医療者が患者の精神的・霊的痛みを和らげる事など出来るのか」
という批判もあろうかと思います。確かに、医療者は無力です。
しかし、向き合い、寄り添い、共に悩み、共に痛むという部分を
真剣に追求するのとそうでないのとでは、到達する場所が大きく
異なるのではないか

「共に悩むこと」こそが緩和医療の真髄であると私は
考えています。答えのない領域ですから、患者様の事を考えれば
悩むのは当然で、私は悩まない緩和ケア医師は「もぐり」だと
すら思います。

寄り添うことを大切にすれば、患者さん自身の苦悩を嫌でも
目の当たりにすることになります。たとえ身体的な苦痛を
薬で緩和出来たとしても、死にゆく患者さんにはそれ以外にも
多くの苦しみを持っておられるのが普通です。医療者は向き合えば
向き合うほど、自分の無力さを感じるものだと思います。
特に医師はそのプライドが大きく傷つけられる経験になるかも
しれません。

共に悩む、自分の無力さを思い知る。しかし、逃げずに
留まる。目の前の患者さんからも、そして今の職場からも。
それはそれほど簡単なことではなく、同時に自分自身のケアも
大切にしなければいけないと思います。それでも歩いて来た
道が、歩いていく道が「これで良い」と思えるのは、患者さん
や御家族の下さった笑顔や「ありがとう」なのだと思います。
新しい一年を、悩みながら歩いて行きたいと思います。

「それでも良いですよ」~私の考える良い在宅医

いつも参考にさせて頂いている、いまいホームケアクリニック
の今井先生のブログ記事から。「在宅医に求められる資質」に
ついてのお話です。

imai-hcc.com

私も全く賛成です。在宅医に求められる資質は、病院医とは
少し異なります。いえ、究極的には人間として、医師として
求められるものは共通の部分も多いでしょう。しかし、
病院は目的がはっきりしています。患者さんの病気の治癒、
あるいは社会復帰、それが出来ない方には出来る限りの延命
と緩和ケア。それに対して、在宅は患者さんの生活の場であり
患者さん、家族の価値観の数だけ正解があるのです。

そこで敢えて、在宅医に求められる資質を一言で言えば、
「柔軟さと寛容さ」である、というのが私の持論です。
医師として、倫理・あるいは保険診療を含めた法律・
ルールの枠の中で、もちろん全てを投げ出すのは無理です
し、その必要はありません。しかし、医療上の正解を、
患者さんにどう「adjust」していくのか
。生活の中にどう
落とし込んでいくのか。そのスキルが求められているの
です。

自ら末期がん患者となった元在宅医の早川一光先生は、
「最期まで自分がパイロットとして操縦器を握りたい」
「着陸する場所を選びたい」
という内容のことをおっしゃっていました。医師の頭
の中にはいくつかの航路があり、良いと思う道があった
としても、たとえ「北」へ進む道を示したところで患者
さんが「南」と言うなら、南へ進む道の中でベストを
探り助言を続けることが出来る
。この力が在宅医として
私が思う大切な能力だと思うのです。

病院から来た先生は初め、なかなかこれが出来ないよう
です。看護師さんやケアマネさん相手に電話口で怒鳴って
しまう先生方の姿を様々な場でみることがあります
(追記すると、怒らないことも在宅医として重要なスキル
である気がします)。御自分が正しいと信じる考えや信念
を否定されたような気持になるのでしょう。
しかし、それが先生の指示を否定していたワケではない
ことは、その後の関わりで分かるはずです。相手も、
患者さんのために医師とうまくやっていきたいに決まって
いますので。ただ、大切にする順番が、病院と在宅では
違うのです

また在宅医の中には、「鎮静はしない」「病院には送り
返すべきではない」等のポリシーを持つ医師がいます。
これも度を越すと要注意です。死生観や信念を持つ
ことは大切ですし、「私はこう思う」という考えを伝える
ことも重要なことです。しかし、最終的にそれを判断
するのは患者さんであり、それは医師のポリシーを越えて
遥かに尊ぶべきものではないでしょうか

在宅医を決める前に私がお勧めしたいことは、御本人は
無理でも御家族は一度その医師と会っておくことです。
自分や家族の希望を、この先生は最大限尊重してくれる
のだろうか。もちろん一度決めた在宅医を変えることは
出来ますが、患者さんの状態によっては大きなマイナス
になることがあるからです。