Not doing but being

東京都大田区で開業している訪問診療医のブログ。主に緩和ケア、認知症、訪問診療、介護、看取り分野の話題です

お一人様の在宅死(2)

昨日の続きです。具体的に在宅死にはどのような考えが必要か
まとめてみたいと思います。

1.出来る限りの準備をすること
まず、我が国で「良い死」が偶然やって来ることはとても
少ないとお考え下さい
。出来れば元気で余裕がある時に、
最低限以下を読み、特にご自分で意思を表現出来なくなった
時のために、協力者の代表には出来れば文章で、ご自分の
気持ちを残しておきましょう。老衰やがん以外の方でも
不可能ではないですが、「意思表示出来なくなってから」
が長くなると思われ、協力者の意志の統一や自費サービス
の利用がより重要になって来るかもしれません。

2.協力者を得ること
まず、お一人様とは言え出来る限り味方を得ることです。
最低限、ケアマネージャーを立て、訪問看護師と訪問診療医
を整えます。また身内、友人、近所の知人や民生委員、また
成年後見人等、チームの味方は多い方が良いです。またお金は
天国に持っていけませんので、余裕があれば住み込みのヘルパー
や、今度説明をしますが「看取り士」「エンゼルチーム」等の
サービスを利用するのも良い方法だと思います。
特に飲水やトイレ移動が困難になる最後の数日だけでも
「何かあったら連絡する」だけでも良いので付き添いが
得られれば、在宅死はとても安心で容易なものに変わります。

3.点滴はしない
がんの末期にしても老衰にしても、苦痛をとる薬剤は積極的に、
しかし、水分が摂れなくなった時は、点滴をしないことを強く
お勧めします。水分が摂取出来なくなると、数日から長くても
2週間くらいで最期を迎えますが、多くの経験・報告から苦痛
の少ない「良い死」が多いことが分かっています。輸液は生存
期間を延ばしますが、水分が摂れないほど衰弱した状態で命を
長らえることは、しばしば大きな苦痛を伴います
。苦痛が
大きければ、病院に入院しなければいけない可能性が増えます。
おむつになると思うので、小水も少ない方が汚れません。
また、数日であれば付き添いに協力してくれる身内や友人等が
いらっしゃるかもしれません。

4.セデーション
どうしても付き添いがなければ、それでも在宅死は可能です。
但し介護保険を駆使しても、夜間は一人になってしまいます。
通常脱水が進めば意識が薄れて来ますので苦痛は少なくなって
いきます(輸液は命を延長するだけでなく、意識をある程度
保つ働きがあります)。しかし夜起きていてもあまり良い時間
にはなりにくいと思いますので、セデーション(鎮静)という
方法を検討すると良いです。セデーションについては
次回詳しく述べます。あらかじめ、このような方法があると
いうことを知っておけば、いざという時にお願いしやすいと
思います

以上、これまでの経験で重要だと思うことを整理しました。
読んで自信がないという方は無理することはないですし、
在宅死を選んだからと言っても万が一に備えるのであれば、
ホスピスの登録を済ませておくことも、個人的にはお勧め
します。ホスピスならご自身のお気持ちに反して苦しい延命
を受ける可能性は殆どありません。

独居看取りの時代~在宅医が考える心豊かな「独り死」

独居看取りの時代~在宅医が考える心豊かな「独り死」

本の紹介です。一般向け。肝心な「看取り」の部分にはあまり
ページを割いていませんが、介護・訪問診療についてこれから
学ぶ方には易しくまとまっていて良いと思います。既に訪問
に携わっている医師や看護師には内容がベーシック過ぎて
新しい発見は少ないかもしれません。

お一人様の在宅死(1)

まず、お一人様と一言に言っても、未婚、パートナーと離婚か
死別、子供や兄弟、姪や甥といった肉親がいる場合等色々で、
全くの天涯孤独では少し話が違って来ますがいずれにしても
結論から言えば在宅死は可能です。

ただ、全員いかなる場合もか、と言うとそうではありません。
最も大切なことは、御本人が強く自宅での看取りを希望して
いるかどうか、です。気持ちと覚悟があれば、介護保険/自費、
肉親・知人の協力を得て何とかなる場合が多いです。一方で、
御本人か身内に強い反対があれば、ほぼ無理です。

以前地域の講演で、独居の看取りが可能であるとお話をした
事がありますが、話が終わった後に「自宅で看取りなど無理
に決まっている」という方の御意見を、お怒りと共に頂戴した
ことがあります。「そうはおっしゃっても、実際に経験が
ありますので…」と言ってもますますお怒りになり、お身内が
一人でおられる時に倒れ、搬送が遅れて大変であった話を
されました。講演後はあまり時間がありませんので、詳しい
話し合いも出来ず、聞いて下さった皆様にも不快な想いをさせて
しまったのでは…と後で申し訳なく思った事があります。
しかし、その後「町医者日記」の長尾和宏先生も同様の経験を
blogに書いておられたので、私の経験や話し方だけの問題では
なかったのだな、と思いました。

blog.drnagao.com

上記の御意見を下さった方は、御自身の身内の経験から独居で
急変した場合の不安を想像し、「無理に決まっている」と
考えられたのだと思います。「無理」という方は、もちろん
在宅死は絶対にお勧めしません。説得するものではないからです。
(ちなみに、このお身内の方は看取りの段階ではなく、直前まで元気
で何もご病気のなかった方でした。まずここでかなり話が違います)。

看取りの段階では恐らく食事が摂れず、トイレにも行けず、一日中
寝て過ごす状況だと思います。その時に何かが起こったとして、
「病院へ行けば何とかなる、苦しまないで済む」と思うから搬送すべき
という考えになるのだと思います。確かにもしかしたら、良い結果に
なる「かも」しれません。

しかし、多くの場合、私はそうではないと思ってます。病院に搬送
されてしまった方が、延命処置により苦しみが多くなる。四肢を
抑制され尊厳が損なわれる。そういったケースをたくさん見て
来ました。看取りの間際の方が、「病院に搬送される」事が何を
意味するのか
。その理解でも大きく意見が変わってくると思うのです。

…長くなりましたので、続きは明日。

はじめに

こんにちは、こたろうと申します。

『not doing but being』。かつて私は同じタイトルの
ブログを書いていた事があります。数年前のもので、
お恥ずかしいことにブログにログイン出来なくなって
しまいました…。ブログ再開に当たり別のタイトルでも
良かったのですが、私の大好きなこの言葉をもう一度
使わせて頂くことにしました。

簡単に自己紹介をします。私はホスピスに興味を持ち
医師の道に進みました。足掛け5年間ホスピスの仕事を
した後、ある切っ掛けで訪問診療に興味を持ち、2013年
7月に開業して在宅での緩和ケアや認知症ケア、看取り
に従事し現在に至ります。このブログでは主に私の仕事
に関するニュースや考えている事を色々と書いていこう
と思っています。

さて、『not doing but being』、訳せば「何かをする
ことではなく寄り添うこと」はご存知の通り現代緩和
ケアの礎を築いた、シシリー・ソンダースの言葉、
緩和ケアの本質を表現した名言です。医師の中には、
「Beingだけで苦痛が軽減するのか」等ととんちんかんな
ことを真顔で言う人がいますが、ソンダースはがん疼痛
緩和においてモルヒネの使い方を確立した医師の一人です。
当然のことながらDoingを否定しているわけがありません
(但し、Beingだけでも随分苦痛は緩和され得ると私は思っています)。

疼痛・その他の症状緩和の方法が研究されるにつれ、
これまで治療困難であったたくさんの患者さんの苦痛が
軽減出来るようになりました。しかし、身体的な苦痛が
減っても、「自分は死ぬ」「生きていても仕方ない」と
いった患者さんの苦悩は薬だけでは治療することは
出来ません。ソンダースはいわゆる「全人的苦痛」に目を
向け、ともすると疎かになりがちな、寄り添う事の重要性を
多くの医療者に届けたかったのだと思います。

実際、寄り添うとはまず患者さんに関心を持つことです。
また、患者さんと共に時間を過ごすということでもあります。
しかし、これは患者さんの苦痛を目の当たりにすることであり、
コントロールが難しい症状や答えのない問いに対して自分の
無力さに気付くことでもあります。

Doingは慣れれば誰にでも出来ますが、Beingを本当に
実行出来る人、しようとする人は少ない。私も偉そうに言う
つもりはなく、出来ていない医療者の一人です。だからこそ
私はこの言葉をブログのタイトルにして、「寄り添うこと」
の重みにずっと向き合いたいと思っているのです。